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猫っ毛な君のこと。/ショートショート


こんにちは、
不意に入ってきた声に、一瞬、息が止まる。
反射的に振り返ろうとしたけど、
その声を受け取る相手は僕ではないはずで。
あぁ、まだ引きずってるのか、
手で覆われた口元が、自分に向けて苦笑いを作る。

多分、知り合いにでも会ったのだろう。
あの声のトーンは、ご近所さんだろうか、
それか、勤め先の常連さんだろうか。
僕に対してのトーンとは、言葉選びとは、違う。
僕に対しては、もっと柔らかくて
そう、彼女のあの猫っ毛の様に、ふんわりと優しかった。


真冬の季節なのに、マフラーも手袋もいらないような
暑がりの僕には、コートも前を閉じずに歩けるような、
そんな一日が終わろうとする時刻
お疲れ様です、
彼女が初めて僕に向けて放った言葉で、
僕が初めて彼女の笑顔を見た日だった。

隣に女性が住んでいることは知っていて、
何度かその姿の欠片は見たことがあった。
開いた玄関ドアから覗く腕とか、足首とか、
あの柔らかな髪の毛とか、
泣いたあとのような、横顔とか。
全体を見ていなくても、多分小柄な子だとは想像がついた。
だけど、あの日初めて横に立った彼女は
想像よりも一回りくらい小さくて、子供のようで、
自分の体型の大きさに申し訳なく思うくらいだった。
それから度々彼女は、僕の姿を見つけると挨拶をしてくれたり
離れていても会釈をしてくれるようになって、
今思い返してみたら、その頃から彼女は
よく外出するようになったのかもしれない。

しばらくして、
彼女と並んで歩けるくらい、距離が縮まった頃
ぽつりと、楽しい、と言った。
偶然、アパート下で靴紐を直す彼女を見つけて
驚かさないように小さく呼びかけると、
なんとなく、会えそうだと思って
紐を結び直したスニーカーで、地面にトントンと
つま先を当てながら笑顔を向ける彼女は
また泣いた後のような顔をしていた。

誰かと、こうやってただお散歩すること。
コーヒー飲みたいね、あのパンおいしそうだね、
夜ごはんは何にするの、お酒は飲むの、
そうやってお喋りしながら歩くの、本当に久しぶりなの。
つまらないでしょ?でも、まだ寒いから。
誰かが隣にいてくれたら、少し温かく感じるの。
あぁ、でも、誰でもってわけじゃないのかな。
好きな人だから、だよね。

ちょっと俯きながら言うその言葉の意味は多分、
子供でも使う”好き”、なんだろうなと思いながら
だからといって、残念に思うことはなく
君が穏やかで幸せになるなら、こっちも幸せだ
なんて、柄にもない言葉が出てしまって、
立ち止まる彼女に気付いた時には、
恥ずかしさで今度はこっちが俯いてしまった。

それから程なくして、彼女と僕の"好き"が大人のソレになり、
さらに、将来を考えるくらいの時間が経ってきた頃。
冬も終わろうとしているのに、マフラーも手袋も必要な
雪がちらつくような一日の、日付が変わってすぐの頃。
彼女は玄関のドアノブに手をかけながら、力尽きたように
でも大きく肩で息をしながら、うずくまっていた。
足元は靴下だけで。コートは肩から落ちていて。
やわらかな髪は乱れていて。手首には、痣ができていた。


それから数日彼女は、その体に不釣り合いなサイズの
無機質な僕のベッドの中で過ごした。
たまに二人並んでお酒を飲んだり、お菓子を食べたり。
そのまま朝まで映画を見たり、喋りながら朝になったり。

子供の頃に怒られてたことって、絶対、
大人が楽しみを独り占めしたいからだと思うの
期間限定の、少し高めなカップアイスを食べながら
頬を膨らまして不貞腐れた顔をする彼女に
僕はその時、このまま彼女と2人だけの世界になれば
どれだけ幸せだろうと思わずにはいられなかった。

彼女と言葉を交わしたのは、あれが最後で。
朝、まだ眠りから覚めない彼女の、柔らかい髪に触れて
少し赤みを帯びた柔らかな頬に触れて
戻ってきたら、また会えると
それはあまりにも不確かなことなのに、
信じて疑わなかったあの時の僕は
彼女を諦めるには近くなりすぎて
だけど、繋ぎ止めるには何もかも足りなかった
彼女の中にはまだ、
僕はただのお隣さんだったのかもしれない


あれから少しして、彼女を見かけた。
柔らかな彼女に合った、インテリアショップ。
穏やかな店内で、彼女は幸せそうに笑いながら
男性客の接客をしていた。
男性客は、2つの商品で迷っているようで
プレゼントを選んでいるのだろうか、
彼女に相談をしているようだった。

彼女からの連絡はなく、僕からもしていない。
職場の先輩に軽く、ただ、
彼女が出て行ったとだけ話してみたら
男から連絡するもんだろう、
と肘でど突かれ、頭をはたかれた。
だけど彼女は今、幸せそうで。
あの頃思った、彼女が穏やかで幸せなら、
その想いは今も変わらない。
彼女が僕をまた必要とするなら、
その時まで待っていてもいい。

あの猫っ毛の様に柔らかな、
僕にしか聴けないあの声で、
ただいま、と言って戻ってくるまで。




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