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コンプレックスから逃げない

『漂砂のうたう(木内昇)』という小説を読んだ。

おおまかに内容を説明すると、時代は明治。明治維新という近代化の波が押し寄せると、今までの身分制度は雪崩が起こるように崩れ、武士という身分は、突如なくなる。主人公である定九郎は元武士。現在は遊郭の立番に身を落として、おのれの行く末も見えないまま、ぼんやりと生きている。

と、まぁこんな感じ。

定九郎は、とにかく「武士」という身分を嫌っているのだけど、それは出来のいい兄と常に比べられた過去によるもの。比べられるというのは、まぁしんどい。

そんな悶々とした日々を送っていた最中、明治維新が起こり、それをきっかけに、彼は家と名前を捨て、武士という過去から逃げだす。が、いくら逃げても過去はねっとりとまとわりついてくる。まるで、呪縛。

いうなれば、定九郎は「武士だったころの自分」に対して強いコンプレックスを抱いているのだ。

コンプレックスは、ずっと付きまとう

このまえ友達と話したときに、コンプレックスって、ずっと付きまとうよねという話をした。その悩みは中々解消されなくて、簡単な解決法も転がっていない。

それに他人にとってはどうでもいいというか、そこまで気にしなくてもいいんじゃないというものなので、その悩みの深さを他人と共有できない。しかし、当人にとってはかなり大きなウエイトを占めている。う~ん、なかなか厄介。

コンプレックスはなるべく隠したい。定九郎もひたすら武士という過去を隠して生きていく。

ただ、問題なのは、ずっと気にはなるということだ。

たとえば鼻がコンプレックスの人は、自分の鼻もそうだし、ほかの人の鼻にも自然と目がいってしまう。まさに芥川龍之介『鼻』のお坊さんの状態。

定九郎は、武士という自分を捨てながらも、西南戦争の結果が気になるし、武士という身分に誇りを持って戦う人々をうらやましくも思ったりする。

彼の中には、間違いなく武士の血が流れていて、その抗うこともできない現実が定九郎を苦しめる。フラフラと定まらずに生きている自分とどうしても比べてしまう。

そのため定九郎は、心の奥底で「自分は必要とされていないのだ」という思いを抱えながら、何か嫌になるたびに仕事を変えて逃げる。

逃げたところで、どうにもならないことに気付いているけど、逃げる。

自分で呪縛は解かないといけない。

武士の世が終わり、考えようによっちゃ、なんにでもなれる。何をするのも自由だ。けど、なれない。過去は定九郎の足にねっとりとしがみつき、自由を奪う。

しかし、定九郎は遊郭の仕事仲間にこんなことを言われる。

生きていりゃ、なんかしら跡が刻まれる。誰でもそうだ。だが、どんな跡であれ、そこから逃げなきゃならねぇ謂れはねぇんだ。

定九郎の手の平には、幼いころから剣を振ってきた証である剣だこがあるし、刀を左の腰に差してきた証拠が左足に刻まれている(左腰に剣を差していると、左足で踏ん張るため右足より左足が大きくなるらしい)。

武士である自分を受け入れる。

そうすることで、定九郎はようやく過去と向き合い、逃げることをやめる。

受け入れるというのは、コンプレックス解消に対する一つの答えだ。そう思えるには多少の時間が必要だが。けど、逃げるのは得策ではないとは思う。背を向けて逃げると、それは余計に肥大化していって、自分の自由を奪ってしまう。

呪縛は自分で解かなければならない。

それとコンプレックスは、その悩みの深さを他人と共有できないと書いたけど、それも違うかなと思えてきた。いや、たしかにそうなのだけど、コンプレックスを持っている苦しみ自体は誰にでも理解できるものだ。なぜならコンプレックスを持っていない人などいないのだから。

と、自分なりにこの本の感想を書いてみた。木内昇さんの『よこまち余話』も面白いのでおすすめ。



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