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幸せについて

「SNS閲覧は1日1回PCのみ」6日目。SNSを見る時間も、パソコンやスマホを触る時間も減らしたら、やっと今年頭くらいまでできていた朝型の生活に戻ってきました。

そして再び、自分のバイブルのような、佐々木典士さんの『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』が頭に浮かび、もう何度も何度も読んでいましたが、再び読み始めたら、改めて思い出したことがありました。

この本を初めて読んだのは、発売当初の4年前になりますが、自分もミニマリストに憧れて、時間をかけてもこんなふうになりたいなと思っていました。

その頃に比べたら、自分の部屋にあったモノも今は1/10くらいになっていて、当時からは考えられないほど快適になっていると思います。

一番モノを処分したときの記事を探してみました。

それでも、ミニマリストにはなれないなあと、そこまでつきつめられない自分の弱さみたいなものを感じたこともありましたが、本質はべつにそんなことじゃなかったんですよね。

佐々木さんは、「幸せに生きるためにどうしたらいいのか」を考えて、そのひとつの手段としてミニマリストという生き方が、幸せな生き方に深く関わってくるという話をしていたわけで、自分が惹かれていたのは、その根幹の部分だったわけです。(何度か読んだあとに気づきましたが、久しぶりに読み返して思い出しました。)

人の目から見た幸せそうな人生を目指したくなる気持ちって、もう子供のころからデフォルトで人間に設定されているようなものです。でも成長していく中で、「ただ自分の楽しさを追求したい」とか「大人や周囲の人が言っていることって本当なのかな」と思う場面は無数に登場していました。

そんな環境の中で生きていても、幸せの基準は社会の基準だという空気は圧倒的に強い。強すぎる。あらがうなんて面倒なんです。

面倒なんだけれど、自分は考えることが好きなので、「やっぱりおかしくないか?」という気持ちが募っていって、30歳を過ぎてから、「ただ、今、楽しく生きたい」と思うようになりました。そして今そう生きることがおそらく将来の幸せにもつながるんじゃないかと。(もっと言えばべつにつながらなくてもかまわないと。)

そこから、世間から外れているかもしれないけれど、こっちのほうが楽しくない?といった発信をしている人にずっと興味があったんですよね。

今思うのは、独り身だとほんとうに楽勝なんですよね。どう生きるも死ぬも自由ですし。同じ考え方のカップルだとさらに強い。

そしてわりと最近まで、こどもがいたらと考えると難しいなと思っていたのですが、たぶん考え方は同じですね。

自分が思う幸せとはなんなのか。人から幸せそうと思われるようなことを目指せば間違いがないのか。大事な人と一緒にいる時間をたくさん犠牲にしても、別の形の幸せがあるのか。

どんなことでも、自分が迷いなく「これだ」と思えたら幸せなんだよなあと思います。

そういう自分の判断の精度を上げたくて、人と話したり本を読んだりどこかに出かけたりしたいんだなあと今日も思います。

いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。