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もうここにはこない

もうここにはこない・・
先週亡くなった母の葬儀が終わり、
諸々の後片付けが住んでから、帰り支度をして
実家を出たとき、そう心でつぶやいた。
12月の始めで、雨が降る寒い午後だった。

昨年の11月、父が逝った。
91歳だった。
いつも普通に始まった平日の朝、
姉から私の携帯に訃報を知らせる電話がきた。
その前の週あたりから体調を崩していた母を心配して、
実家を訪れた兄が、
布団の中で冷たくなっている父を発見した。
父とは、亡くなるちょうど5日前に
電話で話をしたばかりだった。
幾分耳が聴こえにくくなった事以外は、
声の調子も以前と変わらず、
その時は他愛のない話をして終わった。
そんな元気だった父が亡くなるとは
夢想だにしなかった。

父は昭和6年に広島市で生まれた。
当時の広島市は、軍港呉が近くにあり
陸軍の師団司令部も置かれた軍都だった。
その広島の街で、
木材を加工する機械をつくる工場を経営する祖父の下、
10人兄妹の三男として生まれた。
祖父の工場は、木材を加工する機械以外にも
戦時中は、陸軍で使うライフル銃の
銃床に使われる木を加工する仕事も
軍から委託されていた。

原爆が投下された昭和20年8日6日の朝、
父は広島市郊外の作業場にかり出されていた為、
直接、被爆する難を逃れた。
翌日、父は黒い雨が降りしきる中、
壊滅した広島市中心部を歩いて
市内外れの自宅に戻った。

戦争が終わり、地元の工業高校を卒業した父は
上の二人の兄と共に、祖父の工場で働き始めた。
輸入家具が行き渡った昨今と違って、
国内ではまだ多くの家具がつくられていた時代、
祖父の工場で製作された機械は
全国の木工製作所で重宝された。
それらの機械のメンテナンスを受け持っていた父は
全国各地の木工製作所を、飛び回っていた。
時には、機械を輸出した海外の納入先にも赴いていた。
やがて祖父が亡くなり、時代も変わっていく中
安価で軽量な輸入家具が、一般家庭に普及していくにつれて
家具をつくる製作所の数も減っていった。
父の機械も、次第に活躍の場が縮まっていった。
時代の流れに合わせていくように、
工場の規模を縮小し、ごく限られた注文に応じる程度に
細々と祖父から引き継いだ事業を
兄弟3人で保っていった。

おそらくその頃だと思う。
実家の父の書斎で、
一人窓を背にしてソファに座り
無言で佇んでいる父をよく見かけた。
日本全国や海外を飛び回っていた頃の面影はなかった。
声をかけると、ニコッと笑ってくれたが
どこか寂しげで、なんとなく小さく見えた。

その後、しばらくして父の書斎の中の棚に、
木彫りのフィギアが目につき始めた。
その頃、父はちょくちょく旅行に出かけていたが、
その行った先々で見つけた木彫りの土産物で、
木彫りの種類も、アフリカなどの部族の酋長、
ヨーロッパ中世の騎士、商人、農民などを
人間を模したものから、牛や馬、ふくろう、ミミズク、
蛙、蛇などの動物まで多岐にわたった。
それぞれ精巧に実物に似せて彫られたものから、
ユニークなデザインをしたものもあり、
そのほどんどが外国のものであった。
やがてひとつの棚だけでは収まりきらず、
父の書斎そのものが、木彫りのフィギアで
埋まってしまう様相を呈し始めた。

そんな自分で集めた木彫りに囲まれた父は、
小さな子供のように、嬉々としていた。
以前の様に、ひとりで鬱々としていたような雰囲気は
どこにもなかった。

ある時、私は父に、
そんなに木彫りが好きなら、
自分でも彫ってみればと提案したことがあった。
しかし、父の反応は鈍かった。
自ら製作するより、収集することに
本人しかわからない魅力があるようだった。

かなり前、そんな父に
私がロシアのサンクトペテルブルクで手に入れた
木彫り人形を土産として送ったことがあった。
ロシア正教の神父を模して彫られた木彫りで、
何色かの色の種類が、土産物屋の棚に売られていた。
店員曰く、水色がサンクトペテルブルクを表わす色とのことで
それに決めた。
父はたいそう喜んでくれた。
私も、父が大切にしている木彫りのコレクションに
私の送った木彫りが加わったことが嬉しかった。

父が逝ってから、
書斎に所狭しと置かれていた木彫りたちは
身内の人間や、実家を訪ねてきた友人たちに
それぞれ引き取られていった。
几帳面だった父は、
持っていた木彫りすべてに、
手に入れた年月日と、場所を書き込んでいた。
私が父に送った木彫りも、その足裏に
「2004年9月、サンクトペテルブルク」と
マジックで記してあった。

一周忌の後、
父の遺骨が収められているお墓の墓石の横隅に、
その神父の木彫りを置いた。
単に父が喜ぶだろうと思った。
その木彫りが、これから風雪に曝されて
朽ち果てても、それを気に入ってくれて
大切にしてくれた父の側にいるほうが、
木彫りにとっても幸せなはずだ。
そんな濃厚な思い出がある人形と父の墓は
広島駅北口から一望できる
二葉山の中腹の墓地にある。

その父が逝った昨年の11月から
ちょうど一年経った同じ11月、
母は父の後を追うかのように旅立った。
86歳だった。

昨年父が亡くなったあたりから、
体調を崩していた母は、
入退院を繰り返していたが
いつも粘り強い回復をみせて
周囲を安心させた。

戦時中、中国の天津で生まれた母は、
戦況悪化で日本へ引き揚げ、
その後、広島で原爆投下に遭遇し被爆した。
そんな激動の少女期を生きた母には、
いつも柔靭な生命力が備わっているように感じていたので、
その終末はまだ先だと思っていた。

11月も後半に入って、
母は肺炎をこじらせて病院へ運ばれたが、
その後いつものように持ち直したので、
また回復して家に戻ってくるものとばかり
思っていた矢先の訃報だった。
翌日、実家に帰るため
新横浜から乗った新幹線が
浜松あたりを通り過ぎた頃、
急にとめどもなく涙があふれてきた。

母は、昭和12年、中国の天津市内にある
日本人居留地で生まれた。
天津は、広島市の市役所営繕課の幹部職員だった
祖父の海外赴任先であった。

当時の天津は、天津租界と呼ばれて、
治外法権が認められる日本を含む各国の外国人居留地と
中華民国の国民党政府機関が共存していた。
母とその家族の天津での生活は、
家政婦もいる裕福なものだった。
しかし日中戦争の拡大に伴う日本軍による天津占領、
その後1939年の天津事件が起きたあたりから
そんな租界内で穏やかだった生活も一変する。

夜郎自大、自らの力量を省みることもせず、
暴走を繰り返す軍部を尻目に、
中国大陸での戦況が悪化する中、
戦争の前途を見通して、
早々に中国での事業に見切りをつけ、
民間人よりも一足早く日本へ帰国した
日本政府、行政機関の関係者は数多くいた。
祖父も恐らくそのうちの一人だったのであろう。
祖父と母を含むその家族は一緒に日本へ帰国した。 

昭和20年8月6日午前8時15分、 
アメリカのB-29爆撃機から投下された一発の原子爆弾が、
広島市中心部の上空で炸裂した。
その時、小学二年生だった母は、
一年生だった弟と二人で通学途中に被爆した。
母が語ったところによると
「いきなりピカッと光って、すぐに真っ暗になった」そうだ。
爆心地から1.7kmと比較的近距離であったにもかかわらず
母は奇跡的に無傷で、一緒にいた弟も背中にガラス片がささるなど
負傷はしたものの命に別状はなかった。

広島は原爆が投下された都市として、
原爆に因んだ平和学習授業が盛んだった。
その一環で、被爆者本人からの被爆体験を聞く機会は多かったが、
母から直接に自らの被爆体験を聞かされた事はなかった。
先の話は、ちょうど5年前、夏に家族で帰省した時、
当時中学一年生だった娘が、母に被爆体験をインタビューした時に
母が娘に語った内容だった。

母はどちらかと言うと、
過去の事をあまり自ら語る人ではなかった。
最近人伝に聞いたのだが、
原爆が落とされた同じ年に、三人目の弟を亡くしている。
まだ生後間もない赤ん坊だった。
またそれから後に、実の母親も病で亡くした。

晩年、私が実家に帰ると、いつも穏やかに微笑んで、
ダイニングテーブルの前に座っていた母は、
心のずっと奥深いところに蔵した
過去の暗い記憶の存在を、子の私には
微塵たりとも感じさせなかった。

母は今年に入って、体調を崩してからは
主に介護用ベッドで起居していたのだが、
いつも自分の眼鏡をどこかに置き忘れる癖があり、
大抵はベッドの下あたりに落ちているのだが、
眼鏡を探すのはそれなりに大変だった。

11月初めに、父の一周忌を実家で執り行った。
納骨も終わり、翌日、私が帰りの新幹線に乗るため
実家を出ようとしたところ、
母がまた眼鏡をどこかにやったらしく、
ベッドに座ったまましきりと周辺を見回していた。
私がベッドの下を覗き込んでみたところ、
ベッドと簡易トイレの間に落ちている眼鏡を見つけた。
私はもう出発しなければいけない、
夕方まで兄も来ない、
その間、また眼鏡がどこかへ行ってしまうかもしれない・・。
私はふと思いついて、
実家の納戸にあった古紙を縛る水色の細紐を持ってきて
適当な長さに切って
母の眼鏡の両端に結わい、
即席のストラップをつくって母の首にかけてあげた。
母は「ありがとね」と言って私に微笑んでくれた。
それが母と交わした最後の会話で、
最後の思い出となった。

母の葬儀が終わって、
母は骨となって実家に戻ってきた。
昨年、父が逝き、今年は母も旅立って
実家の主は誰もいなくなった。
広島駅北口の正面に見える
二葉山の中腹にある実家は
私にとって「いつも帰る場所」だった。
二十歳の頃、上京して実家を出たが
いつ実家に帰っても
父と母は何も言わず暖かく迎えてくれた。
何事もなかったように
そのままテーブルで晩御飯を共にした。
後に、私が結婚し、妻が娘を出産した後、
実家に帰った時、孫が乗ったベビーカーを
母は押しながら「清々しいね」と言って喜んだ。
毎年、夏に帰省した時は、夜に母と娘が
庭先でする花火は夏の恒例行事だった。
そこはいつも変わらない場所だった。

この三十年の間、
実家近くの広島駅周辺の町並みは
大きく様変わりをした。
駅周辺は野球場もでき、再開発が進んで
高層のオフィスビルや
タワーマンションが建ち並んで、
別の知らない街に変貌を遂げつつある。
もはや駅の周辺に、昔の面影はどこにもない。

その間、当然ながら、
時が進むのは、私の実家も例外ではなかった。
父も母も老いていった。
それぞれの別れがやってきた。
そしてそれはそこが私にとって
「帰る場所」でなくなった時でもあった。

帰りの新幹線が動き出し
車窓から見える二葉山を見ながら
心の中でつぶやいた。
もうここにはこない。

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