ありし日の私へ。(劇場アニメ「映画大好きポンポさん」の感想)

「映画大好き!ポンポさん」(以下「ポンポさん」)の感想をまとめてみた。

「よかった!とかはいいから、どう良かったか、具体的に話して!」

というわけで、私は自分の事を「オタク」だと思いこんでいた一般人なのだが(理由は後述)この映画はまさに「オタクが何かを生み出す原動力」を描いた「オタク讃歌」である。ところが、この映画の原作者杉谷さんも、監督の平尾さんも、びっくりするほどの変態で、そういうものを一切見せないのだ。最初は明るいニャリウッドの「夢の世界」を描いて、その描きかたと生きる人々を、必要最低限の情報で描く。導入のスピード感としては完璧な流れであり、そこから展開される「無茶振り」に、ヒロイン(ヒロインはポンポさんなのか…?)ナタリーとの出会い、中盤に起こる「大事件」を経て、とんでもないサプライズとフィナーレへとつながる。

…あらすじはだいたいこの通り、のはず。

いやもう、あらすじ書いたところで感想にならないので、これがどんだけすごいかという話なんだけど。これ、実は冒頭で半分ぐらい説明されてるんだよね。30秒CMの編集のところで。

はい、最初のストロングポイントです。「あらゆる話が伏線」

「クリエイターが作品をクリエイトする話」なので、もはや中身そのものが「映画」で、この「映画」そのものも同じ様に作っている。当たり前なんだけど、この「入れ子構造」こそが、ポンポさん最大の魅力なんですよ。

んで、それがあろうことか、気づくのが結構後半なんですよね。ものすごく長い伏線を引っ張って、最後に平尾さんが「な?だから言うたやろ?」って顔で出てくるんですよ。
観客は「そうですね!いうてましたよね!」って返すしかない。

それでまた、その見せ方がすごくうまい。次のストロングポイント「演出が天才的」
特にシーンチェンジの演出が神がかってうまい。なぜカットをするのか。場面転換だったり、心理の変化だったり。そういうのが全部シーンチェンジの演出に入ってるんですよ。
もちろんそれだけじゃない。原作ファンなら誰もが感動し、鬼村さんも一番好きな「カラーページ」の演出。はっきり言って「どうするんだろう…」って思ったんですよね。

カラーページのシーンは漫画だと「それまで白黒だったページにそこだけカラーを挟むことで、世界に色がつき美しく見える」というシーンなんだけど、カラーアニメだとどうしてもそこをどうするか想像がつかなかった。

まさか「直前のシーンを白黒にして戻す」とは…恐れ入りました…

「オタク」と「オタクになれなかった一般人」

でね。話はここで終わらないんですよ。これだけいい映画なのに、後半から一気に話が重くなる。それは「オタク」「オタクになれなかった一般人」とに突きつけられる「最後通告」の話。

私、いいとこのボンボンなんですよ。両親がいい仕事してて、母親は早くに主婦になって子供二人を育てた。学費に困ったことも、おもちゃやお菓子に困ったこともない、ものすごく恵まれた家庭で育ったんです。
まあ、その一方で、世の中のお父さんは5時に仕事が終わって土曜日に家にいるってのを知ったのは中学校入ってからだったんですけどね。

でも、私はアニメやゲームが好きで、めちゃくちゃ遊んでたので、自分のことを「オタク」だと思ってたんですよ。

ところが、そうじゃなかった。

それは昔から、ちょっとした「違和感」で出てきていたんです。
私はウルトラクイズが好きで、ウルトラクイズのオタクだと思ったけども、ウルトラクイズのことを何も覚えていない
私はテレビのクイズ番組が好きで、クイズ番組オタクだと思ったけども、クイズ番組のことを何も覚えていない
私はゲームが好きで、ゲームのオタクだと思ったけども、ゲームのことを何も覚えていない
私は最初、これが「そんなに好きではなかったから」だと思ってたんですが、ポンポさんはそんな私に答えを出したんです。

「お前はオタクじゃない。オタクに憧れ、なれなかった一般人だ」と。

主人公のジーン君。確かに言動は不自然だし、好きなことをしゃべると早口になるし、他人に気遣う余裕なんか一つもない、正真正銘のオタクなんですけど、オタクをこじらせたクリエイターに必要な「飢え」があったんです。
もっと面白くしたい。自分にはコレしかない。最も象徴的なセリフが、レセプションでナタリーに言った「映画を取るか、死ぬしかない」ってアレです。

私も自分をオタクだと思いこんでいたので、好きなもののクリエイターになりたいと思ったことはあるんですよ。小説も書いたし、TRPGのシナリオも書いた。クイズも作ったり出したりしてるし、ボードゲームだってたくさん遊んでいる。

でも、何一つ作れなかったんです。

もちろん才能がない。作り上げる根性がない。そういうのもあったと思うんだけど、今日ポンポさんを見て「お前はオタクになれるほどの飢えがあったのか?」って言われたんです。

私をジーン君に投影した時に、編集作業として「努力の結晶を編集することができるか」って考えた時に、絶対無理ってなったんですよ。絶対無理。人の努力を踏みにじるとか、私には到底できない。それがいい結果につながるとわかっていても、それを断行するだけの覚悟も根性もない

これが「飢えてない証拠」なんですよ。面白いもの、楽しいもの、エンターテイメントに「飢えてない」から、そのために努力できないんですね。浅い器に満たされた満足で、人生を謳歌できてしまうんです。

「アラン・ガードナーは、私だ」

ところが、ポンポさんの映画は、原作にはない「一般人」が出てくるんです。
アラン・ガードナー。ニャリウッド銀行に勤める、ジーンの同級生です。
誰でも仲良くコミュニケーションが取れる、完全にスクールカーストの上位オタクを見下さない一般人です。まあ、満たされてるし、邪魔もしないので、オタクなんぞに気を使う必要もないんでしょうが…

そんな彼がちょっと挫折している時に出会ったのが、監督やってるジーン君でした。

「ノートに長文の映画の感想を書く」「それを濡らしてダメにしても全部覚えている」「思い出して別のノートに復元する」というオタクムーブにドン引きしながら、彼はジーン君の目が、居場所を得たことによって輝いていることに気がつくのです。

私がオタクだと思いこんでいたのは、多分ここです。
私もオタクにあこがれていたんです
好きなことを好きなだけ追求して、ついには自分でクリエイトしてしまうという、オタクの「飢え」に、私は、アランは、魅了されたんです。

そのため、彼はとんでもないことをするんですが、それは映画を見てください。

あまりのクレイジーさに「こいつ…頭がイカれてやがる…!!」って言っちゃったんですよ。劇場で。
クレイジーです。とんでもなくクレイジーです。思いついたのもクレイジーなら、やっちゃえるのもクレイジーなんです

ポンポさんの映画で、最高のシーンです

シナリオにおける問題点の解決としても大事なんですけど、それどころじゃなくて「感動が人を動かした」んです。

そして、それが、私に重なるんです。
あの時、オタクの「飢え」が、私を動かしたんだって。

この作品の最後のストロングポイント「オタクの飢えは人を動かす衝動になる」です

もうひとりの「一般人」

ですが、この作品において、オタクとかけ離れた存在で、クリエイトに参加しないひとがもうひとりいるんです。それに気づいた時に「そうか!」ってなりました。

それがジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネット
ポンポさんです。

え?ポンポさん映画作ってる、って?
いやいや、映画作ってるのはコルベット監督ですよ?

ポンポさんはプロデューサー。作ってないんですよ。
(といいながら、後で説明しますが脚本は書いてるんですよね。これは後述します)

ポンポさんはクリエイターであるペーターゼンさんの引退を機に、あらゆるコネクションを引き継ぎ、人を見る目、作品を見る目、そして魅力的な人間性と強い決断力という映画作りの才能を持ち合わせ、どんな作品でも面白く仕上げる事ができる

ポンポさんは(脚本以外は)何もしてないんですよ。
「な?だから言うたやろ?」

彼女は作品を作り上げる際のオタクの「飢え」を持ち合わせていない
なので、彼女の仕事は「飢え」を必要としないコネクションの管理と資金調達、そしてスポンサーに頭を下げること

もちろん大きな点ではポンポさんもクリエイターなんだけど、ジーン君のようなクリエイトは(脚本以外では)していないんです。

そして、あの脚本も、厳密に言えばオタクの「飢え」から作られたものではなく、ナタリーを見て書いた脚本なんですよね。
ただ、そんな言い訳を抜きにして、飢えなしに脚本をクリエイトできたのは、ポンポさんが「天才」だからなんだと思います。
天才って、どんなところからもクリエイトできるんですよ。すごいよね。
私はそんな天才じゃないから、オタクになれない一般人なんでしょうけども。

この映画の主役は「あなた」です。

まとめに入ります。
ポンポさんには人の軸が4本あります。ポンポさん、ジーン君、ナタリーちゃん、そしてアラン君

オタクの「飢え」を見いだされ、クリエイターになって作品を作るジーン君。
夢を笑われても諦めず、チャンスをモノにしてサクセスするナタリーちゃん。
何をやっても天才で、「飢え」がなくともクリエイトしてしまうポンポさん。

そして。
オタクと出会い、エンターテイメントに心を奪われ、作品を助けるアラン君。

でも、この4人が主人公じゃないんです。
マーティンさんの一生がジーン君に重なったように、私達の人生が誰かに重なるんです。
そしてそれはアラン君という「一般人」が挟まったことにより、ポンポさんは完成したのだと私は思います。

なぜなら、私のような「オタクになれなかった一般人」が、彼に人生を投影することができるから。

この映画は、エンターテイメントが好きな人、エンターテイメントを作りたい人、エンターテイメントを諦めた人に「できることがあるよね?やってみようよ」と語りかける、まさに「人生のアリア」なのです。

誰かのために歌うアリアなのか。
自分のために歌うアリアなのか。
作品のために歌うアリアなのか。

まだ見てない人は、ぜひ、この作品を見てください
見てくれた人は、ぜひ、自分がどこに出演していたのか確かめてください。

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