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駄文#27 キャンプ道具のある暮らし

こんにちは、抽斗の釘です。

3か月かそれ以上、中編の制作に集中しておりました。それが10月末に済み、しばらく惰眠を貪っておりました。

さて、かれこれ趣味というものを持ち合わせていなかった私ですが、今年の夏からキャンプを始めてみました。といってもテントで宿泊、とまではいかず、もっぱらピクニック程度のデイキャンプです。
流行も少し落ち目がち、ということらしく、またきっかけというものはほとんどありませんが、癒しを求めてブッシュクラフトの動画を漁るうちにキャンプ動画に出会い、見ているうちにまんまと実践したくなった、といったところです。

キャンプに必須なのがキャンプ道具といえるでしょう。体一つで野山に繰り出しても何も始まりません。
焚き火台やキャンピングチェア、ナイフ。鍋やフライパンなどのクッカー。薪で火を起こして昼飯を食べるぐらいなら、これぐらいが最低限でしょうか。しかし道具を揃え出すとずぶずぶはまっていくのが趣味の沼といったところ。屋根代わりのタープ、薪割りのハンドアックス、グランドシート、ガスバーナーコンロ、簡易テーブル、火吹き棒、火ばさみ。
実践と妄想が行ったり来たりを繰り返し、どんどん必要な物、シチュエーションが思い起こされます。
家族を連れていくならもう一脚椅子がいる。グランドシートも大きい奴を。
雨が降ったら、気温が下がれば、虫よけに、緊急用に……。と、”必要”は際限がなくなります。また探せば探すだけ、インターネットでは便利な道具が見つかってしまうのです。
知人に聞いた話ですが、その方の知り合いなどは道具だけ集め、なんと一度もキャンプにいかないまま廊下に積まれているといった始末らしく。
しかし不思議と馬鹿にはできません。むしろ頷けもします。道具を購入し、それを手に入れる、というだけでけっこう満たされてしまう感じ、分かってしまうのです。

幼い子供を見ていて思うのですが、彼らがオモチャで遊ぶとき、そこには多くの場合想像がセットになるように思います。ミニカーを走らせればそこには街や道路が生まれ、ぬいぐるみを動かせばそこには森や山が広がります。
それと同じように、趣味の道具というものはある程度その物に想像がくっついているように思われます。つまりキャンプ道具を手に入れ眺めているだけで、その向こうに野山があり、キャンプファイヤーが見える。そしてそこで過ごす自分の理想の姿が見える。そういった力を、道具は持ち合わせているように思えます。

また、実際キャンプ場に赴き道具を広げてみると、それをいかに上手に使うか、そういった工夫がキャンプの醍醐味になると実感しています。
何もない野外に快適な空間を作り出すわけですから、テントを張ったり机を組み立てたりと、それ相応の手間がかかります。その手間に我を忘れて没頭する、道具の使い方だけに集中する。それがある種の忘我感につながり、人を魅了するのだと思います。薪を割る、食材を調理する、コーヒーを淹れてみる。何をするにしてもまずは道具に手を伸ばすでしょう。
くわえて道具は便利なように作られています。手間とその便利さ、そのバランスがうまい具合に達成感をもたらしてくれます。

また、道具がうまく使えると、愛着がわきます。
キャンプが終わってから、自宅で道具の手入れをするときなどは心に奥ゆかしさも生まれます。道具に着いた汚れを落としながら、また次のキャンプを思い描いたりするのです。
そうやって道具に慈愛を重ねていると、慈愛している自分もまた愛おしく、慈愛する時間もまたさらに奥ゆかしくなっていきます。
そして道具を愛玩していると、日々の調理器具やあれこれの道具へも慈愛が生まれ、そこではっと気づくのです。

ああ、これが、あの「ていねいな暮らし」か!

私の心は麻の布に包まれるようなゆとりを持ちます。
所詮企業戦略だとどこか忌避していた暮らし。
日々時間や得も言われぬ不安に襲われ続ける”ぞんざいな暮らし”を続ける私に、ほうれん草についた砂がなかなか落ちないというだけで苛々する私に、その気づきはなんと安らかで豊かな心持を与えてくれたでしょうか。

ああ、道具道具。
季節が冬に向かえば、必要なキャンプ道具も増えてきます。
ランタン、薪ストーブ、ダッチオーブン。
それらに着いたススや土汚れを拭い磨く自分の姿が奥ゆかしい。
心の安らぎは、生活の奥行きは、道具を愛することから始まるのではないでしょうか。

そんな妄想を浮かべながら、部屋に散乱した道具を眺めています。

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