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駄文#30 きみは過去か私が未来か

こんにちは、抽斗の釘です。

自分の子供の顔を眺めていると、私自身が重なることがよくあります。
写真で見た自分の幼い頃の姿とそっくりなのでなおさらですが、よく泣くところなどを見ていると、昔の自分の心が思い起こされる感じがします。

何かにつけて、悲しかった。
初めから、心がやわだったのでしょうか。
嬉しさや楽しさももちろん覚えている気がしますが、ひときわ強く思い起こされるのが悲しさです。
それはもしかしたら記憶ではなく、子供の泣き顔から、勝手に共感を起こされているに過ぎないのかもしれません。
しかしともかく、子供の泣き顔をみると、ああ確かに、そんなことでも悲しいよな、なんか泣いちゃうよな、と頷きたくもなるのです。

そうやって子供を抱きかかえるとき、私はどこかで子供に自分を投影しています。
まるで、小さい頃の自分を抱くような感覚です。

友人に、家族の介護をしているひとがいます。
辛くないか、と、私は尋ねたことがありました。
しかし友人は笑います。
「血が繋がっている。家族の心と体の何割かは自分と同じだ。自分の世話をしている感覚でやっている」
友人はそのようなことを言いました。
そういうものか、と私は頷きながら、しかし友人の気丈さに敬服を隠せません。

子育てもそういうものかと、ぼんやり思います。
むろん、まったく別の心の人間ですが、何割かは、自分だと思ってもよいように思います。
過去に持っていた自分の悲しさを、いま、親となった私自身が抱き上げ慰めることは、どことなく、やっと自分を救えているように感じます。誰にも癒しようがなかった、得体の知れなかった悲しさは、やっと、私自身だけが、解決できるのだと。
自分の子も他人に違いありません。その他人に自分の負債を重ねるのは良くないかと思いながら、しかし秘かになら、きっと大丈夫でしょう。

人に優しく、と言いますが、人は誰かに何かを及ぼすとき、それがたとえ血縁でなくても、そこに自分が少なからず、何割か、投影されているような気がします。
人に親切にすると、こちらも嬉しくなる。自分がしてもらった嬉しさです。
人に怒りをぶつけると、後々嫌な気持ちが残る。冷静になると、怒りの先に自分がいる。
小さい頃におかした間違いや失敗なども、いまでも引きずっていたり、夢に見たりしてしまいます。
不思議と、自分だけで終わる物事はそれほど覚えていませんが、相手を傷つけた、だとか、関係を修復できなかったことについては、いつまでも悪い記憶として覚えています。
しかし他人は他人。その人が覚えているかも忘れているかも、今では確かめようがありません。
しかし自分だけはいつまでも覚えています。
つまり、他人も、記憶の中では自分なのではないでしょうか。

ならば今、子供が蓄え始めた記憶の親は、将来記憶の子供自身となって残り続ける部分もあるかもしれません。
私が持つ私の親の記憶。
幼い私を叱った親は、今でも私を叱り続けています。抱きかかえられた記憶は、今でも私を抱き上げてくれています。それは本当の親がではなく、私の記憶が私を抱いているのでしょう。

今の子供は、過去の私であり、今の私は、将来、記憶として子供の一部となる。

そんなことを考えながら、やはり何かとピイピイ泣く子を見て、笑ったり苛立ったりしている次第です。

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