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白?黒?…斑(まだら)です!

この記事は、映画「アクト・オブ・キリング」「七人の侍」を観た感想を基にした記事です。

理想と現実のコミュニケーション

私にとって理想のコミュニケーションは、相手を傷つけることなく尊重し、一方的に自分の意見押し付けない程度に主張すること。このバランスがちょうどよく実現されると関係は長続きし、「この人は私の友人だ」と感じるのだと思っている。

しかし、理想と現実とはしばしば食い違う。

特に、大人になってから新しく友人を作るのは難しい。

相手の要望を叶えようとして、自分の気持ちや要望を後回しにすることは、後になってストレス引き起こすことに気づいた。自己犠牲によって得るものよりも失うものの方が大きいことに気づいた結果、いつしか人との関わりを避けるようになっていた。

それでもやっぱりどこかで友人に飢えている。

自己の視点と他人の視点

人とのコミュニケーションは、常に自己の視点からスタートする。

挨拶や服装、表情、発言などから、相手の情報を受け取り分析する。

しかし、このような自己の視点による分析は、しばしばやっかいな先入観を生みだす。

他人の視点による自分の姿もまた、相手の表情や言葉、「またね」があるかないかでわかる。もし都合が合わなくて誘いを断られたとしても、友人だったら別の日を提案されるだろう。それがなければ嫌われている。(それも先入観かもしれない)


先入観の影響

人との関係を築き、続けていく上で重要なことは、お互いが不快ではないこと。快であり続けることを要求するのは難しいが、許せないほどの不快と対峙し続けるほど、人は強くはない。

”この人はこういう人だ”

その先入観が快である場合、見返りのない良心で接することができるが、不快である場合、覆すのは簡単ではない。不快な相手は距離を取るなど、方法はいろいろあれど、不快な人に対する態度はおおよそ加害である。

自分の視点による先入観が、しばしば人を正義のヒーローにも悪人にも変化させる。

偏った正義感の加害性

一方を正義のヒーロー、また一方を悪者として見た方が、人は理解がしやすく楽だ。多くの人に伝わりやすいストーリーになる。しかし、その”わかりやすさ”こそが自分の視点からみた“怪物”を作り上げてしまう。

昨日まで笑顔で話していた人が、不快スイッチを踏んだ途端、連絡が取れなくなることがある。自分の中に静かに飼われていた”怪物”が、正義感によって刺激され、悪人を退治すべく表に出てきたのだ。

自分の持つ偏った正義感は、無意識の中で加害を引き起こす可能性がある。私が観た映画は、正義感による偏見や認知のゆがみが、他者を脅かし、傷つけ、怒らせる結果を招くことを示していた。

正義のヒーローにも笑顔の裏にずるい面や嘘つきな面があり、悪者と言われている人も困っている人を助ける優しさを持ち合わせていることはあることを忘れてはならない。

善悪や快不快を超えて

人は善と悪だけで分けられるわけではない。快か不快かの二元論でもない。多面的な存在であり、善と悪の中間が存在することもある。快と不快が同居することもある。

この世は白でも、黒でもなく、斑模様という想像力を働かせよう。快や不快、善や悪といった枠組みを超えて相手と接しよう。

”怪物”に振り回されない自分でいたい。

長く続く友人を作ろう。


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