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堀辰雄『大和路・信濃路』を逍遥する

昔、文学にかぶれていたことがあります。

とにかく古典、と名のつくものはなんでも好きで、ギリシアの哲学から近代の私小説まで読んでました。

大学の授業なんて真面目に出ず、就活もせず(親父の会社があったので笑)、独りで自分がうなづける考えと出会うために毎日大学の図書館に行っていました。

大学の前半は快活で友達が多かった私ですが、だんだんせせこましくなってくる周囲が本当に嫌で、絶対就活なんてしない!と思って距離が出てきたのです。

今思えば就活だって新卒なら一度きりなんだし、やっておけば?と自分に言いたいかったのですが、あの時は目線の狭い人間でした。

ともあれ、私は本当に色々読みました。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』には目を丸くしてました。

トーマスマンの『魔の山』は今でも私の聖書。

フローベールの『感情教育』は最高の恋愛小説。

ヘーゲルの『精神現象学』は読むと勇気が湧く。

夏目漱石の『草枕』は私の生き方そのもの(だと信じてた)。

川端康成の『掌の小説』はいつも携えて読んでいた。

あの頃はぼっちだったのに、楽しかったのだろうか?本となんか語らって、と思うけど、そういうことは今思えば二十代だからできたのかも。

今はもうそんなことできません、そんな情熱はないので。

替わりに落ち着いて、今までの経験が整理できるようになってきました。

あの時読んだ本、ああだったな、と。

視点が変わると気づきもあるのですね。

その点で、今私が気になっている随筆があります。

『大和路・信濃路』という堀辰雄の中編です。

信州・八ヶ岳の山麓に住んでいた堀が、古都・奈良とを往還しながら、思索を深めていく様が描かれます。

堀辰雄という小説家を知るのには欠かせない随筆として知られます。

初めて読んだ時、正直私はあまりピンときませんでした。

「西洋かぶれだなぁ」とか「いかにも私小説家だな」という感想しか抱かなかったのです。

『大和路・信濃路』という叙情的なタイトルに比して、内容は本当に個人的なものに過ぎないのです。

でも最近私は共感力や想像力(他人の立場に立って物事を考える)が強くなって、堀の言わんとしていることがだんだん分かってきました。

あと自分自身も奈良に惹かれ移住を計画している身なので、今回読んでみてとっても分かる〜、という部分が多くありました。

堀はルーツを広島に持つ東京生まれの人間ですが、結核のせいもあり高地の信州に長く住んでいました。

私の祖母も大分文学少女だったので、昔一緒に軽井沢の堀が住んでいた信濃追分まで行った思い出があります。

信州と奈良、そこにはどんなつながりがあるのでしょうか。

堀は信州住まいの人間として、奈良との違いを文中には多く記しますが、その実読む我々としてはこの二つの国の共通点が否応なしに意識づけられます。

大和も信濃も、本当に古い国。

ロマンがあって、上古を想い、永久に旅をするように住む。

そんな感情によって繋がった二つの国。

これこそ堀が天然で生み出した魔法なのかもしれません。

堀は『大和路・信濃路』の最初でこう言っています。

それから数年立って、私もときどき大和のほうへ出かけては、古い寺や名だかい仏像などを見て歩いたりするようになったが、そんな旅すがら、路傍などによく見かける名もない小さな石仏のようなものにも目を止めるようにしていた。そういうものの中には私の心を惹くようなものもかなりあるにはあったが、数年前信濃の山のべの村で見つけたあんなような味わいのあるものは一つも見出せなかった。そして、私はときどきあの笹むらのなかで小さな頭を傾げていた観音像を好んで思いだしていた。もとより旅にあってはほどよく感傷的になるのも好いとおもっている私のことだから、それが単なる自己の感傷に過ぎなくても、それもそれで好いとおもっていた。

 云ってみれば、それはそれまで何年かその山ちかい村で孤独に暮らしていた自分をもその一部とした信濃そのものに対する一種のなつかしさでもあろうし、又、こうやって大和の古びた村々をひとりでさまよい歩いているいまの自分の旅すがたは旅すがたで、そんな数年前の何か思いつめていたような自分がそういったはかないものにまで心を寄せながら、いつかそれを通してひそかにあくがれていたものでもあったのであろう。ともかくも、その笹むらのなかの小さな思惟像は、何かにつけて、旅びとの私にはおもい出されがちだった。

堀のなかでは好悪感情が非常に重要です。

堀は信州ではあまり厚遇されなかったので信州に良い印象を抱きませんが、そういう感情にこそ堀の潜在的な本心があるような気がしてなりません。

「信州の石仏に良いものは一つもないが、奈良のは全部いい」みたいなことも言ってますが、ようするにないものねだりなのです。

奈良という土地はマジックがかかっていて、そのバイアスで全てがよく見えます。

一方で信州という土地にもマジカルバイアスはあって、あそこには御柱や道祖神といった不思議なものが沢山あります。

そういうものを見ると、ああ信州に来たなぁと思わされますが、堀は「おらが土地」みたいな意識があって(江戸っ子なのに)、感情が邪魔して気付けないのです。

そんな堀はけっこうミーハーなのか、中宮寺の例の半跏思惟像について言及します。

和辻哲郎っぽい、文化の伝播について思索するのですが、最後の一行には注目。

或る秋の日にひとりで心ゆくまで拝してきた中宮寺の観音像。――その観音像の優しく力づよい美しさについては、いまさら私なんぞの何もいうことはない。ただ、この観音像がわれわれをかくも惹きつけ、かくも感嘆せしめずにはおかない所以の一つは、その半跏思惟の形相そのものであろうと説かれた浜田博士の闊達な一文は私の心をいまだに充たしている。その後も、二三の学者のこの像の半跏思惟の形の発生を考察した論文などを読んだりして、それがはるかにガンダラの樹下思惟像あたりから発生して来ているという説などもあることを知り、私はいよいよ心に充ちるものを感じた。

 あのいかにも古拙アルカイックなガンダラの樹下思惟像――仏伝のなかの、太子が樹下で思惟三昧の境にはいられると、その樹がおのずから枝を曲げて、その太子のうえに蔭をつくったという奇蹟を示す像――そういう異様に葉の大きな一本の樹を装飾的にあしらった、浅浮彫りの、数箇の太子思惟像の写真などをこの頃手にとって眺めたりしているときなど、私はまた心の一隅であの信濃の山ちかい村の寺の小さな石仏をおもい浮かべがちだった。

いきなり奈良仏と信州石仏を並列する堀の心中は計り兼ねますが、まあロマンチストね、て感じ。

ここに出てくる「樹下思惟」、そういえば正倉院宝物に「樹下美人」というタペストリーがありました。

この頃正倉院宝物は今みたいに公開していませんでしたし情報も全くありませんでした。

それでも何か「樹下美人」が念頭にあるかのような発言、ドキリとさせられます。

さて、本文の日記体部分に入ります。

堀はアッパークラスなので滞在は老舗の奈良ホテルです。しかも15泊はしてますよ、この方。

一九四一年十月十日、奈良ホテルにて くれがた奈良に著いた。僕のためにとっておいてくれたのは、かなり奥まった部屋で、なかなか落ちつけそうな部屋で好い。すこうし仕事をするのには僕には大きすぎるかなと、もうここで仕事に没頭している最中のような気もちになって部屋の中を歩きまわってみたが、なかなか歩きでがある。これもこれでよかろうという事にして、こんどは窓に近づき、それをあけてみようとして窓掛けに手をかけたが、つい面倒になって、まあそれくらいはあすの朝の楽しみにしておいてやれとおもって止めた。その代り、食堂にはじめて出るまえに、奮発して髭ひげを剃そることにした。

いいですね、私は奈良行く時は6000円の安宿ですよ、朝飯しかついてない。

私は奈良ホテル泊まったことはありませんが、立地最高ですね。

ホテルの南に大乗院という興福寺の門跡寺院であった子院の跡地があって、そこの庭園ごしに旅館が見えるの、素晴らしい。

写仏部の合宿は奈良ホテルでにしましょうかね笑

さて、お次は唐招提寺の境内でくつろいだ堀。

この日は結構ご機嫌だったのか心地よい饒舌です。

夕方、唐招提寺にて いま、唐招提寺の松林のなかで、これを書いている。けさ新薬師寺のあたりを歩きながら、「城門のくづれてゐるに馬酔木かな」という秋桜子の句などを口ずさんでいるうちに、急に矢も楯もたまらなくなって、此処に来てしまった。いま、秋の日が一ぱい金堂や講堂にあたって、屋根瓦の上にも、丹の褪めかかった古い円柱にも、松の木の影が鮮やかに映っていた。それがたえず風にそよいでいる工合は、いうにいわれない爽さわやかさだ。此処こそは私達のギリシアだ――そう、何か現世にこせこせしながら生きているのが厭になったら、いつでもいい、ここに来て、半日なりと過ごしていること。――しかし、まず一番先きに、小説なんぞ書くのがいやになってしまうことは請合いだ。……はっはっは、いま、これを読んでいるお前の心配そうな顔が目に見えるようだよ。だが、本当のところ、此処にこうしていると、そんなはかない仕事にかかわっているよりか、いっそのこと、この寺の講堂の片隅に埃だらけになって二つ三つころがっている仏頭みたいに、自分も首から上だけになったまま、古代の日々を夢みていたくなる。…

ここ(唐招提寺)は俺たちのギリシアだ、とか言ってしまう堀はやっぱりミーハー?

あ、でも私も秋の唐招提寺でぼーっとしてたことありました。

金堂の脇の椅子に座って、ギリシアから伝来したという木柱の「エンタシス」を見ていると、なんか愉しい…。

境内は高い松の木が多く、風にそよぐ音もまた美しい。

ごきげんな堀の気持ちがよくわかります。

唐招提寺のお次は佐保路へ。

訪れたのは海龍王寺です。

村の入口からちょっと右に外れると、そこに海竜王寺という小さな廃寺がある。そこの古い四脚門の陰にはいって、思わずほっとしながら、うしろをふりかえってみると、いま自分の歩いてきたあたりを前景にして、大和平一帯が秋の収穫を前にしていかにもふさふさと稲の穂波を打たせながら拡がっている。僕はまぶしそうにそれへ目をやっていたが、それからふと自分の立っている古い門のいまにも崩れて来そうなのに気づき、ああ、この明るい温かな平野が廃都の跡なのかと、いまさらのように考え出した。

 私はそれからその廃寺の八重葎(やえむぐら)の茂った境内にはいって往って、みるかげもなく荒れ果てた小さな西金堂(これも天平の遺構だそうだ……)の中を、はずれかかった櫺子(れんじ)ごしにのぞいて、そこの天平好みの化粧天井裏を見上げたり、半ば剥落した白壁の上に描きちらされてある村の子供のらしい楽書を一つ一つ見たり、しまいには裏の扉口からそっと堂内に忍びこんで、磚(せん)のすき間から生えている葎までも何か大事そうに踏まえて、こんどは反対に櫺子の中から明るい土のうえにくっきりと印せられている松の木の影に見入ったりしながら、そう、――もうかれこれ小一時間ばかり、此処でこうやって過ごしている。女の来るのを待ちあぐねている古いにしえの貴公子のようにわれとわが身を描いたりしながら。……

佐保路…。いい響きです。

私の大好きな法華寺や不退寺のある一帯をそう呼びます。

今では宅地化されていますが、ところどころにかつての面影を残しております。

千年前にも実は大伴氏ら豪族の宅地であったというこの土地で、堀は妄想という名のロマンに耽ります。

いえしへ人のあひびきは(ツルゲーネフの小説?)美しいけども、今の粋人とやらは…と言いたそう…。

海龍王寺は戦前は拝観料取るどころか、廃寺呼ばわりされるくらい荒れ果ててたのですね。

お、次は西大寺の北西、秋篠寺でございます。

午後、秋篠寺にて いま、秋篠寺という寺の、秋草のなかに寐そべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎芸天女の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱あかい髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香こうにお灼けになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。……

 此処はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしくしているところがいい。そうしてこんな何気ない御堂のなかに、ずっと昔から、こういう匂いの高い天女の像が身をひそませていてくだすったのかとおもうと、本当にありがたい。

ああ、秋篠寺の伎芸天、またミーハーですねぇ。

しかも「ミュウズ」って。

でもあの伎芸天は不思議な像なのです、確かに。

秋篠寺の苔に覆われた、静かな雰囲気も最高。

一回しか行ったことないから、また行きたいですね。

続いては西の京の薬師寺です。

堀は何に注目したのかというと、東塔の一番上の「水煙」という装飾。

荒れた池の傍をとおって、講堂の裏から薬師寺にはいり、金堂や塔のまわりをぶらぶらしながら、ときどき塔の相輪を見上げて、その水煙のなかに透彫りになって一人の天女の飛翔しつつある姿を、どうしたら一番よく捉まえられるだろうかと角度など工夫してみていた。が、その水煙のなかにそういう天女を彫り込むような、すばらしい工夫を凝らした古人に比べると、いまどきの人間の工夫しようとしてる事なんぞは何んと間が抜けていることだと気がついて、もう止める事にした。

この水煙、まさしく奈良時代を追憶するのには素晴らしい彫刻なので是非見てみてください。

この当時の薬師寺は今みたいに広々とはしておらず、松林に覆われていました。

ほとんどの伽藍は朽ちて、その中に東塔という「凍れる音楽」があったわけです。

この水煙、燃えるような、爆ぜるかのような非常に凝った造りをしていまして、いにしへ人の創意の凄さを見せつけられます。

お次は「戒壇院」。

堀はそこで読書をしたのだそう。

十月十九日、戒壇院の松林にて きょうはまたすばらしい秋日和だ。午前中、クロオデルの「マリアへのお告げ」を読んだ。

 数年まえの冬、雪に埋もれた信濃の山小屋で、孤独な気もちで読んだものを、もう一遍、こんどは秋の大和路の、何処かあかるい空の下で、読んでみたくて携えてきた本だが、やっとそれを読むのにいい日が来たわけだ。

 雪の中で、いまよりかずっと若かった僕は、この戯曲を手にしながら、そこに描かれている一つの主題――神的なるものの人間性のなかへの突然の訪れといったようなもの――を、何か一枚の中世風な受胎告知図を愛するように、素朴に愛していることができた。いまも、この戯曲のそういう抒情的な美しさはすこしも減じていない。だが、こんどは読んでいるうちにいつのまにか、その女主人公ヴィオレエヌの惜しげもなく自分を与える余りの純真さ、そうしているうちに自分でも知らず識らず神にまで引き上げられてゆく驚き、その心の葛藤、――そういったものに何か胸をいっぱいにさせ出していた。

 三時ごろ読了。そのまま、僕は何かじっとしていられなくなって、外に出た。博物館の前も素どおりして、どこへ往くということもなしに、なるべく人けのない方へ方へと歩いていた。こういうときには鹿なんぞもまっぴらだ。

 戒壇院をとり囲んだ松林の中に、誰もいないのを見すますと、漸やっと其処に落ちついて、僕は歩きながらいま読んできたクロオデルの戯曲のことを再び心に浮かべた。そうしてこのカトリックの詩人には、ああいう無垢な処女を神へのいけにえにするために、ああも彼女を孤独にし、ああも完全に人間性から超絶せしめ、それまで彼女をとりまいていた平和な田園生活から引き離すことがどうあっても必然だったのであろうかと考えて見た。そうしてこの戯曲の根本思想をなしているカトリック的なもの、ことにその結末における神への讃美のようなものが、この静かな松林の中で、僕にはだんだん何か異様ことざまなものにおもえて来てならなかった。

奈良には戒律を授ける「戒壇」が二つあります。

東大寺と唐招提寺です。

東大寺は戒壇堂が残っていて、中には高名な四天王像が安置されています。

唐招提寺のほうは、境内奥にあって、建物はなく石段のみが残ります。

堀は多分東大寺のほうをおっしゃっているかと思います。この時代メジャーなのは明らかにこっちなので。

彼が読んだのはポール・クローデルというほぼ同時代のフランス人小説家のキリスト教戯曲。

大変篤信的なムードに溢れた劇だそうですが、堀はそれを東大寺の戒壇院にも適用してみます。

彼は信州の住まいでも真冬に読んだことがあって、それもまた良しとしています。

しかし堀のこの劇に対する理解度や共感は奈良という不思議空間に来たことでさらに深まっている感じがしますね。

同じ小説を信州と奈良で読む。それによる感じ方の違い。中々面白い体験です。

次も東大寺です。三月堂(法華堂)をお詣りします。

しかし堀が書いたのは本尊・不空羂索観音さまではなく、脇仏の月光菩薩さま。

三月堂の金堂にて 月光菩薩像。そのまえにじっと立っていると、いましがたまで木の葉のように散らばっていたさまざまな思念ごとそっくり、その白みがかった光の中に吸いこまれてゆくような気もちがせられてくる。何んという慈いつくしみの深さ。だが、この目をほそめて合掌をしている無心そうな菩薩の像には、どこか一抹いちまつの哀愁のようなものが漂っており、それがこんなにも素直にわれわれを此の像に親しませるのだという気のするのは、僕だけの感じであろうか。……

 一日じゅう、たえず人間性への神性のいどみのようなものに苦しませられていただけ、いま、この柔かな感じの像のまえにこうして立っていると、そういうことがますます痛切に感ぜられてくるのだ。

「人間性への神性のいどみ」???

うーん、分からん。

でも堀は天平びとの簡素さを月光菩薩さまに感じ取ったようですね。

不空羂索観音さまは脱活乾漆造なだけ親しみづらいですが、月光菩薩さまは塑像なので柔和さがあります。

上の言はもうしかしたら、仏像はどれもいかめしくていかんが、この月光菩薩さまは人間味があっていい、てことかな?

さて、21日は見仏友達がやってきて、一緒に東大寺戒壇院の内部へと誘います。

十月二十一日夕 きょうはA君と若き哲学者のO君とに誘われるがままに、僕も朝から仕事を打棄ちゃって、一しょに博物館や東大寺をみてまわった。

 午後からはO君の知っている僧侶の案内で、ときおり僕が仕事のことなど考えながら歩いた、あの小さな林の奥にある戒壇院の中にもはじめてはいることができた。

 がらんとした堂のなかは思ったより真っ暗である。案内の僧があけ放してくれた四方の扉からも僅かしか光がさしこんでこない。壇上の四隅に立ちはだかった四天王の像は、それぞれ一すじの逆光線をうけながら、いよいよ神々しさを加えているようだ。

 僕は一人きりいつまでも広目天の像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視している貌かおを見上げていた。なにしろ、いい貌だ、温かでいて烈しい。……

「そうだ、これはきっと誰か天平時代の一流人物の貌をそっくりそのまま模してあるにちがいない。そうでなくては、こんなに人格的に出来あがるはずはない。……」そうおもいながら、こんな立派な貌に似つかわしい天平びとは誰だろうかなあと想像してみたりしていた。

 そうやって僕がいつまでもそれから目を放さずにいると、北方の多聞天の像を先刻から見ていたA君がこちらに近づいてきて、一しょにそれを見だしたので、

「古代の彫刻で、これくらい、こう血の温かみのあるのは少いような気がするね。」と僕は低い声で言った。

 A君もA君で、何か感動したようにそれに見入っていた。が、そのうち突然ひとりごとのように言った。「この天邪鬼というのかな、こいつもこうやって千年も踏みつけられてきたのかとおもうと、ちょっと同情するなあ。」

 僕はそう言われて、はじめてその足の下に踏みつけられて苦しそうに悶だえている天邪鬼に気がつき、A君らしいヒュウマニズムに頬笑みながら、そのほうへもしばらく目を落した。……

 数分後、戒壇院の重い扉が音を立てながら、僕たちの背後に鎖とざされた。再びあの真っ暗な堂のなかは四天王の像だけになり、其処には千年前の夢が急にいきいきと蘇みがえり出していそうなのに、僕は何んだか身の緊しまるような気がした。

 それから僕たちは僧侶の案内で、東大寺の裏へ抜け道をし、正倉院がその奥にあるという、もの寂びた森のそばを過ぎて、畑などもある、人けのない裏町のほうへ歩いていった。

 と、突然、僕たちの行く手には、一匹の鹿が畑の中から犬に追い出されながらもの凄い速さで逃げていった。そんな小さな葛藤までが、なにか皮肉な現代史の一場面のように、僕たちの目に映った。

戒壇院の四天王、私もみたことがあります。

ただ、お堂の広さに比して四天王は小さく、しかも壇の四隅に祀られているので、なんか印象に残らないのです。

多分実際に見るより、ネットのお写真を見た方が良いかと。

ただこの見仏三人衆はよく四天王のお顔を見ていまして。

「こういう顔した天平びとがいたんだろうな」「邪鬼が踏みつけられてかわいそう」「身が引き締まる」とかみんな感想としてはアレですが、堀の文がいいからなのか、中身がある気がします。

あーこういう見仏、やってみたーい。いかがでしょう、写仏部員たち?

で、堀はというと、今度は法隆寺で写仏?

今は亡き金堂障壁画をスケッチする画工たちを堀は目撃します。

ちょい長いですが引用します。

十月二十四日、夕方 きのう、あれから法隆寺へいって、一時間ばかり壁画を模写している画家たちの仕事を見せて貰いながら過ごした。これまでにも何度かこの壁画を見にきたが、いつも金堂のなかが暗い上に、もう何処もかも痛いたしいほど剥落しているので、殆ど何も分からず、ただ「かべのゑのほとけのくにもあれにけるかも」などという歌がおのずから口ずさまれてくるばかりだった。――それがこんど、金堂の中にはいってみると、それぞれの足場の上で仕事をしている十人ばかりの画家たちの背ごしに、四方の壁に四仏浄土を描いた壁画の隅々までが蛍光灯のあかるい光のなかに鮮やかに浮かび上がっている。それが一層そのひどい剥落のあとをまざまざと見せてはいるが、そこに浮かび出てきた色調の美しいといったらない。画面全体にほのかに漂っている透明な空色が、どの仏たちのまわりにも、なんともいえず愉しげな雰囲気をかもし出している。そうしてその仏たちのお貌だの、宝冠だの、天衣てんねだのは、まだところどころの陰などに、目のさめるほど鮮やかな紅だの、緑だの、黄だの、紫だのを残している。西域あたりの画風らしい天衣などの緑いろの凹凸のぐあいも言いしれず美しい。東の隅の小壁に描かれた菩薩ぼさつの、手にしている蓮華に見入っていると、それがなんだか薔薇の花かなんぞのような、幻覚さえおこって来そうになるほどだ。

 僕は模写の仕事の邪魔をしないように、できるだけ小さくなって四壁の絵を一つ一つ見てまわっていたが、とうとうしまいに僕もSさんの櫓の上にあがりこんで、いま描いている部分をちかぢかと見せて貰った。そこなどは色もすっかり剥はげている上、大きな亀裂が稲妻形にできている部分で、そういうところもそっくりそのままに模写しているのだ。なにしろ、こんな狭苦しい櫓の上で、絵道具のいっぱい散らばった中に、身じろぎもならず坐ったぎり、一日じゅう仕事をして、一寸平方位の模写しかできないそうだ。どうかすると何んにもない傷痕ばかりを描いているうちに一と月ぐらいはいつのまにか立ってしまうこともあるという。――そんな話を僕にしながら、その間も絶えずSさんは絵筆を動かしている。僕はSさんの仕事の邪魔をするのを怖れ、お礼をいって、ひとりで櫓を下りてゆきながら、いまにも此の世から消えてゆこうとしている古代の痕をこうやって必死になってそのままに残そうとしている人たちの仕事に切ないほどの感動をおぼえた。……

 それから金堂を出て、新しくできた宝蔵の方へゆく途中、子規の茶屋の前で、僕はおもいがけず詩人のH君にひょっくりと出逢った。ずっと新薬師寺に泊っていたが、あす帰京するのだそうだ。そうして僕がホテルにいるということをきいて、その朝訪ねてくれたが、もう出かけたあとだったので、こちらに僕も来ているとは知らずに、ひとりで法隆寺へやって来た由。――そこで子規の茶屋に立ちより、柿など食べながらしばらく話しあい、それから一しょに宝蔵を見にゆくことにした。

 僕の一番好きな百済観音は、中央の、小ぢんまりとした明かるい一室に、ただ一体だけ安置せられている。こんどはひどく優遇されたものである。が、そんなことにも無関心そうに、この美しい像は相変らずあどけなく頬笑まれながら、静かにお立ちになっていられる。……

 しかしながら、此のうら若い少女の細っそりとしたすがたをなすっていられる菩薩像は、おもえば、ずいぶん数奇すきなる運命をもたれたもうたものだ。――「百済観音」というお名称も、いつ、誰がとなえだしたものやら。が、それの示すごとく古朝鮮などから将来せられたという伝説もそのまま素直に信じたいほど、すべてが遠くからきたものの異常さで、そのうっとりと下脹しもぶくれした頬のあたりや、胸のまえで何をそうして持っていたのだかも忘れてしまっているような手つきの神々しいほどのうつつなさ。もう一方の手の先きで、ちょいと軽くつまんでいるきりの水瓶などはいまにも取り落しはすまいかとおもわれる。

 この像はそういう異国のものであるというばかりではない。この寺にこうしてやっと落ちつくようになったのは中古の頃で、それまでは末寺の橘寺あたりにあったのが、その寺が荒廃した後、此処に移されてきたのだろうといわれている。その前はどこにあったのか、それはだれにも分からないらしい。ともかくも、流離というものを彼女たちの哀しい運命としなければならなかった、古代の気だかくも美しい女たちのように、此の像も、その女身の美しさのゆえに、国から国へ、寺から寺へとさすらわれたかと想像すると、この像のまだうら若い少女のような魅力もその底に一種の犯し難い品を帯びてくる。……そんな想像にふけりながら、僕はいつまでも一人でその像をためつすがめつして見ていた。どうかすると、ときどき揺らいでいる瓔珞のかげのせいか、その口もとの無心そうな頬笑みが、いま、そこに漂ったばかりかのように見えたりすることもある。そういう工合なども僕にはなかなかありがたかった。……

 それから次ぎの室で伎楽面などを見ながら待っていてくれたH君に追いついて、一しょに宝蔵を出て、夢殿のそばを通りすぎ、その南門のまえにある、大黒屋という、古い宿屋に往って、昼食をともにした。

 その宿の見はらしのいい中二階になった部屋で、田舎らしい鳥料理など食べながら、新薬師寺での暮らしぶりなどをきいて、僕も少々うらやましくなった。が、もうすこし人並みのからだにしてからでなくては、そういう精進三昧はつづけられそうもない。それからH君はこちらに滞在中に、ちか頃になく詩がたくさん書けたといって、いよいよ僕をうらやましがらせた。

 四時ごろ、一足さきに帰るというH君を郡山行きのバスのところまで見送り、それから僕はやっとひとりになった。が、もう小説を考えるような気分にもなれず、日の暮れるまで、ぼんやりと斑鳩の里をぶらついていた。

 しかし、夢殿の門のまえの、古い宿屋はなかなか哀れ深かった。これが虚子の「斑鳩物語」に出てくる宿屋。なにしろ、それはもう三十何年かまえの話らしいが、いまでもそのときとおなじ構えのようだ。もう半分家が傾いてしまっていて、中二階の廊下など歩くのもあぶない位になっている。しかしその廊下に立つと、見はらしはいまでも悪くない。大和の平野が手にとるように見える。向うのこんもりした森が三輪山あたりらしい。菜の花がいちめんに咲いて、あちこちに立っている梨の木も花ざかりといった春さきなどは、さぞ綺麗だろう。と、何んということなしに、そんな春さきの頃の、一と昔まえのいかるがの里の若い娘のことを描いた物語の書き出しのところなどが、いい気もちになって思い出されてくる。――しかし、いまはもうこの里も、この宿屋も、こんなにすっかり荒れてしまっている。夜になったって、筬を打つ音で旅びとの心を慰めてくれるような若い娘などひとりもいまい。だが、きいてみると、ずっと一人きりでこの宿屋に泊り込んで、毎日、壁画の模写にかよっている画家がいるそうだ。それをきいて、僕もちょっと心を動かされた。一週間ばかりこの宿屋で暮らして、僕も仕事をしてみたら、もうすこしぴんとした気もちで仕事ができるかも知れない。

この文章を読むと、このすぐ後に焼けてしまう運命にある金堂障壁画が哀れでなりません。

しかし堀が目撃したように、この時期このマスターピースの素晴らしさに惹かれ、多くの画工が模写を試みていました。

それにしても、こう何気ない場面なのに堀の御手から生み出される文章はこうも美しくて叙情的なのでしょう。

そして百済観音。堀は一番お好きだそうです。

堀は百済観音を「彼女」と呼び、以前は飛鳥の橘寺に「彼女」がいたエピソードなどを披露します。

あ、そうなんだ。百済観音って最初から法隆寺にいたのではないのは初耳でした。

夢殿近くの宿屋について思索した文章、美しいですね。

菜の花や梨の花、いいですね。私は平原に咲き乱れる紅いレンゲソウが見てみたいです。確かそういうのが入江泰吉のお写真でありました。

そして、堀は一編の物語をこの奈良体験から書いてみようかと思うに至ります。

十月二十四日夜 ゆうがた、浅茅が原のあたりだの、ついじのくずれから菜畑などの見えたりしている高畑の裏の小径だのをさまよいながら、きのうから念頭を去らなくなった物語の女のうえを考えつづけていた。こうして築土のくずれた小径を、ときどき尾花などをかき分けるようにして歩いていると、ふいと自分のまえに女を捜している狩衣すがたの男が立ちあらわれそうな気がしたり、そうかとおもうとまた、何処かから女のかなしげにすすり泣く音がきこえて来るような気がして、おもわずぞっとしたりした。これならば好い。僕はいつなん時でも、このまますうっとその物語の中にはいってゆけそうな気がする。……

 この分なら、このままホテルにいて、ときどきここいらを散歩しながら、一週間ぐらいで書いてしまえそうだ。

15日もいてまだ奈良ホテルに泊まる気なのか…(絶句)。

この文章が書かれたのは1941年。十五年戦争の真っ最中ですね。

堀の体調はこの後急激に悪化し、結核療養で小説を書くどころではなくなります。

そのまま戦後亡くなってしまうのですが、もし元気だったら戦後どんな奈良と信州にインスパイアされた小説を書いたのだろうと思ってしまいます。

信州から奈良。奈良から信州。それが大和路・信濃路です。

堀の奈良滞在編はこれでおしまい。この後は書簡と断片みたいな文章が続きます。

あと三つの文だけ見て終わりにいたしましょう。

まずは書簡の一部を。

でも、そんな三四日だって、こちらでもって自分の好きなように過ごすことができるのだとおもうと、たいへん幸福でした。僕は一日の夜おそくホテルについてから、さあ、あすからどうやって過ごそうかと考え出すと、どうも往ってみたいところが沢山ありすぎて困ってしまいました。そこで僕はそれを二つの「方」に分けて見ました。一つの「方」には、まだ往ったことのない室生寺や聖林寺、それから浄瑠璃寺などがあります。もう一つの「方」は、飛鳥の村々や山やまの辺べの道みちのあたり、それから瓶原のふるさとなどで、そんないまは何んでもなくなっているようなところをぼんやり歩いてみたいとも思いました。こんどはそのどちらか一つの「方」だけで我慢することにして、その選択はあすの朝の気分にまかせることにして寐床にはいりました。……

 翌朝、食堂の窓から、いかにも冬らしくすっきりした青空を見ていますと、なんだかもう此処にこうしているだけでいい、何処にも出かけなくったっていいと、そんな欲のない気もちにさえなり出した位ですから、勿論、めんどうくさい室生寺ゆきなどは断念しました。そうして十時ごろやっとホテルを出て、きょうはさしあたり山の辺の道ぐらいということにしてしまいました。三輪山の麓ふもとをすこし歩きまわってから、柿本人麻呂の若いころ住んでいたといわれる穴師の村を見に纏向山のほうへも往ってみたりしました。このあたり一帯の山麓には名もないような古墳が群らがっているということを聞いていたので、それでも見ようとおもっていたのだけれど、どちらに向って歩いてみても、丘という丘が蜜柑畑で、若い娘たちが快活そうに唄い唄い、鋏の音をさせながら蜜柑を採っているのでした。何か南国的といいたいほど、明るい生活気分にみちみちているようなのが、僕にはまったくおもいがけなく思われました。――が、そういう蜜柑山の殆どすべてが、ことによったら古代の古墳群のあとなのかも知れません。そんな想像が僕の好奇心を少しくそそのかしました。

奈良は「南国的」、そんな堀の印象がとっても印象的。

無論こうした彼の感想は信州の冬との比較によって生じるものであり、現代の東京に住んでいる私のような人間はとても抱かぬものなのです。

「古代の古墳」ってやつもあまり信州には似つかわしくないと堀は思っているらしいですが、彼は信州の古墳や遺跡、御柱に目はいかなかったのでしょうね。

そういう堀の意図的な対比の構図を作り出す思考回路はまた興味深いです、現代人からしたら。

信州も考古学や歴史学が進歩して、いろいろなことが明らかになってます。渡来人のこととか、安曇氏のこととか。

今の観光大国・信州なぞとても堀には想像できなかったでしょうな、まさか奈良よりも信州のほうが魅力的だとは。

あ、奈良=南国の話に戻りますが、奈良でタチバナのかわいい花とか見ると、私は確かに南国っぽいなと思いますね。

ああいう楽天的な花は信州には似つかわしくない気が致します。

それこそ、北アルプスに咲くウルップソウやオダマキ、ツクモグサのような高山植物が…。

二文目は柿本人麿について論じたもの。

妻の死を悼む歌です。

たとえば、巻二にある人麻呂の挽歌。――自分のひそかに通っていた軽の村の愛人が急に死んだ後、或る日いたたまれないように、その軽の村に来てひとりで懊悩する、そのおりの挽歌でありますが、その長歌が「……軽の市にわが立ち聞けば、たまだすき畝傍の山に鳴く鳥の声も聞えず。たまぼこの道行く人も、ひとりだに似るが行かねば、すべをなみ、妹が名呼びて袖ぞ振りつる」と終わると、それがこういう二首の反歌でおさめられてあります。

秋山のもみぢを茂み迷はせる妹を求めむ山路知らずも
もみぢ葉の散りゆくなべにたまづさの使を見れば逢ひし日思おもほゆ

 丁度、晩秋であったのでありましょう。彼がそうやって懊悩しながら、軽の村をさまよっていますと、おりから黄葉がしきりと散っております。ふと見上げてみると、山という山がすっかり美しく黄葉している。それらの山のなかに彼の愛人も葬られているのにちがいないが、それはどこいらであろうか。そんな山の奥ぶかくに、彼女がまだ生前とすこしも変らない姿で、なんだか道に迷ったような様子をしてさまよいつづけているような気もしてならない。だが、それが山のどこいらであるのか全然わからないのだ。……

 そんなことを考えつづけていると、突然、誰か落葉を踏みながら自分のほうに足早に近づいてくるものがある。見ると、文をはさんだ梓の木を手にした文使である。ふいと愛人の文を自分に届けに来たような気がして、おもわず胸をおどらせながら立ち止まっていると、落葉の音だけをあとに残してその文使いは自分の傍を過ぎていってしまう。突然、亡き愛人と逢った日の事などが苦しいほど胸をしめつけてくる。

彼があげた人麻呂の2首は万葉集にのっているポピュラーな和歌です。

堀は『風立ちぬ』のモデルにもなった恋人を実際に喪っていますので、人麻呂の気持ちは痛切に感じられるのでしょう。

人麻呂マニアな一面のある堀は、十五泊に及ぶ奈良旅でも絶えず人麻呂について言及していました。

人麻呂の妻を亡くした心情、彼のロマンティシズムは大いに堀の共感を誘ったことでしょう。

そうして信州と奈良はまた結ばれる、感情によって。

なんか不思議ですね。

やっと、最後の文です。

本当はこの後聖書を引用した文書が続くのですが、ここでは取り上げません。

大変高明な、「浄瑠璃寺の春」という文章です。

浄瑠璃寺は奈良?と突っ込まれるかもしれませんが、中世には興福寺の僧侶の隠棲所であり、バスも奈良から出ているので、京都府ですが奈良として扱います。

この文章から、哲学的な省察がなされた部分を抜粋します。

「第二の自然」という新しい観念がここでは提示されますので、ご注目を。

傍らに花さいている馬酔木よりも低いくらいの門、誰のしわざか仏たちのまえに供えてあった椿の花、堂裏の七本の大きな柿の木、秋になってその柿をハイキングの人々に売るのをいかにも愉しいことのようにしている寺の娘、どこからかときどき啼きごえの聞えてくる七面鳥、――そういう此のあたりすべてのものが、かつての寺だったそのおおかたが既に廃滅してわずかに残っているきりの二三の古い堂塔をとりかこみながら――というよりも、それらの古代のモニュメントをもその生活の一片であるかのようにさりげなく取り入れながら、――其処にいかにも平和な、いかにも山間の春らしい、しかもその何処かにすこしく悲愴ひそうな懐古的気分を漂わせている。

 自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば、第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか? ――そういうパセティックな考えすらも(それはたぶんジムメルあたりの考えであったろう)、いまの自分にはなんとなく快い、なごやかな感じで同意せられる。……

 僕はそんな考えに耽りながら歩き歩き、ひとりだけ先きに石段をあがり、小さな三重塔の下にたどりついて、そこの松林のなかから蓮池をへだてて、さっきの阿弥陀堂のほうをぼんやりと見かえしていた。

「第二の自然」とは、英国でいうゴシック小説みたいな世界観なのでしょうか。

それとも一種の「崇高美」のような。

奈良という都市自体、この「第二の自然」が当てはまりそうですね。いい具合に忘られられて枯れていく町、奈良。

そういえば、浄瑠璃寺というお寺はなんとなく信州っぽさのあるお寺な気がします。

山の中にあり、ひっそりとしていて、ハイキングができて、どこか自然な風情がある。

それこそ、塩田平の別所温泉あたりにありそうな古寺のイメージがするのです。

昔から浄瑠璃寺というお寺には何か懐かしさを感じていましたが、もうしかしたらここにはそういった信州の高原的な開放感があるのかもしれません。


奈良と信州を結びつけた人間は堀辰雄が初めてかもしれません。

当時はそれほど共通点を見出し難かった二つの国は、時を経て、ロマンという感情で繋がるようになりました。

ですから、奈良好きと信州好きを兼任されている方は意外といらっしゃるのではないでしょうか。(京都ではない、のがポイント!)

私は本当に堀辰雄がもし生きていたら書いたであろう、古典に範を取った小説を読んでみたかったです。

そこには信州に住み、奈良に恋焦がれた人間の集大成が息づいていたであろうと思うのです。


最後に。

堀辰雄に贈る一曲を。

シューベルト作曲、スヴァトスラフ・リヒテル演奏の「さすらいびと幻想曲」を。

奈良も信州も、人は旅にさすらうように住む…。

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