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それぞれの苦労があること

最近、女性って、本当にあれこれ苦労があるのだなあと思っている。
ついつい自分の乗り越えてきた苦労ばかりを見つめて、人の苦労には鈍感であったのではないか?とつくづく思っている。

今日、前から関心を持っていたNHKの朝ドラの『虎に翼』を全部駆け足で観た。
私たちの世代の女性が権利を認められていないと発言するのがどうか?と思わされるほど、当時の女性はもっともっと権利が認められていなかったのだなあと今更ながら驚いた。
そもそも法文からして、違う。当たり前である。日本国憲法がまだ制定されておらず、女性に選挙権のなかった時代である。
でも、昭和六年の段階で、夫からのDVによる妻からの離婚は認められ、民事訴訟の条文解釈によって、夫の管理下にあった嫁入り道具を取り返すという判決が、ドラマの上でとは言いながら下された。
その画期的な結末に、これからの展開を期待できた。

さて、ヒロインの母を石田ゆり子さんが演じておられるが、それこそ良妻賢母そのものでありながら、ちゃんと本音と建て前を使い分け、その自分自身の生き方をきちんと言葉で定義していて、受け入れている。
そういう女性が、登場する。
そして、まるで女性の権利について、女性それぞれに意識が、まるでグラデーションのように、旧態依然側と進歩側にちょっとずつ寄ったり、あるいは極端だったりしながら表れている。
それぞれに実は苦悩や、あれ?という疑問をもっている。

時代が違うのに、まるで私が若いころ、反発したリ、受け入れたりを繰り返し、そして大好きな仕事を手放して結婚したいきさつ、そしてその後また、反発してはあきらめたり、受け入れたりを繰り返してきたことを思わされた。
自分たちがされてきたことはつい次世代にも連鎖的に要求してしまうのかもしれない。

新卒で勤めた学校の身近にいた夫人が、ご自分もなかなかに才気煥発だったのに、そしてとんでもないわがまま娘だったのに、それこそ生真面目な夫に仕え、子どもたちを優秀に育ててきたプライドと忸怩たる思いをぶつけて、私を教育しようとされた。
とにかく結婚の尊さを説かれ、私の考え方を否定しようと必死でおられたのに、その実、次男さんは、私と同じ年、いや早生まれだから一学年私より上の、私なんかが足元にも及ばないキャリア志向の女性と結婚された。もう、八つ当たりがひどかった。

先生、同い年だよね・・・?

そちらのお嫁さんが、結婚前に、お子さんができることを想定外で申し込んでおられた留学をお子さんが三か月の頃に夫に預けて実行されたときには、

あなただって、どっちかって言うとそういう人じゃない?

と一緒にされた。
私には三か月の可愛い娘を置いて旅立つという気持ちはなく、娘が生まれた途端、仕事も学問も、可愛い娘のライバルには到底なれなかった。私は相当母性が強かった。

どちらがいいというのではないけれど、なんでも一括りにして同類にされるのはあまりに乱暴すぎる。
その方は、絶対に良妻賢母が正しいという価値観だったが、その実、ご自分のやりたいことを封印されてきた人生で、旦那様に相当ご苦労されてきたことも知っていた。

私たちの時代の、その先輩に当たる親世代も相当苦労してきたことだろう。
ただ、ある意味選択肢が広がった分、私たちの世代の葛藤はもっと大きかったのかもしれない。

私は塾を主宰していて、よくお母さま方から、大学への思いを語られる。

本当は大学に行きたかったけれど、経済的に行けなかったから・・・。

正直、だから何だって言うんですか?私に何の関係があるんですか?

とうっとうしい思いで聞いていたこともある。

成績が良かったことをあれこれおっしゃったり、お母さまがおられなくて家事一切を引き受けていたから勉強したくてもできなかったというお話もお聞きした。

お子様を指導するのに、面倒くさいなあと思って聞いていた。

でも、『虎と翼』を観て、ああ、本当に経済的な理由や、そのほかの理由で、能力があったり、その意志があっても進学できず、そのことをいつまでも心に置いておられる方がいらっしゃって、それも仕方のないことなのかもしれないと思い始めた。

私だって、父の考え方で、相当自分のやりたい方面のことについて制限もあった。決してみんなが何も言わないで進学を認めてくれていたわけでもない。
ほぼほぼ全員が四年制大学を受験し、進学する高校で、私は学校の価値観と、父の価値観との間で、随分葛藤したものだった。
一方、母には母の思いがあった。
女性も教育を受けておかなければならないと思っていた。
そもそも自分自身も大学に進みたかった人だった。
でも、母の大学教育への思いはどこか頓珍漢で、文学部に進んでも、その将来を職業と結びつけるのは難しく、せいぜい教師への道があるくらいだということまでもわかっていなかった。

今でも時折、羨ましく思ってくださる方がいらして、その思いをぶつけられる時の複雑さったらない。
そして、その方々も、自分の方が女性の生き方として正しいと思おうとしていたり、そう主張なさったりする。
とにかくこの問題は複雑である。

私は良妻賢母の在り方が嫌いではない。
むしろその賢さをもって、称賛に価すると思っている。
いやむしろ大和撫子という美称をもった日本女性の心性のすばらしさを私は賛美もするし、自分の内面にある大和撫子を涵養したいとさえ思っている。

でも、それは周りがその人に求めるものではないのかもしれない。
むしろそうありたいと思うときに自身がそうあればいいのではないのだろうか?
それに男性を立てると言っても、立てるに値する男性だとありがたい。
心理的に、男性を立てておいた方が世の中うまく行くのは事実である。
それをうまく使っても何が悪いだろうか?
それって言わば女性が掌の上に載せていて、結局、賢いのは女性である。

イギリスのサッチャー首相は上手だったらしい。
自分の女性であるところを見せて、そこはやっぱり主婦という面を見せていたという。
男性と肩を並べるのはとても素敵なことだ。でも、一方、男性は男性の特質、女性は女性の特質を上手に生かしながら、対立するよりも、融合し、あの人の言うことなら、と自然に受け入れられる在り方はないものだろうか?

この話、まだまだ続きそうである。

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