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ただただ読みたい・・・。

毎日受験指導。
つまりはアウトプットばかり。
そろそろインプットをしたい。
私の中身が枯渇していく・・・。

そんなアウトプットだとかインプットだとかいう言葉で表せられないほど、私は本が読みたい。
もう数日ベッドに寝転がって、ゴロゴロゴロゴロ本を読んで過ごしたい・・・。

と国公立二次試験の二日前に考えている私を許してください。

って言ってるけど、昨日母の病院に付き添って行って、その待ち時間に少々読んだ本が私に力を与えてくれた。
私はエール・フランスの飛行機に乗って、パリまで出掛け、松方さんと吉田茂と会いに行った・・・。

などとよく言うわ・・・。

今私の中で流行りの原田マハ『愚か者たちのタブロー』の話である。
日本史の近代史・現代史の中で、お名前はお見かけするけれど、その人物像は全く描けていない方々が登場なさる。
松方コレクション、などというより松方財政でお目に掛かった方である。

正直指導していても、もっともっと知りたいのである。
目の前の、表層部分だけを知った気になって、現れては消えていく人々。
それでも日本史の教科書や参考書の中でも、時折司馬遼太郎作品などに登場したその姿そのままに、その人物の思いや当時の時代の雰囲気が風や日の光や町の喧騒などと共に感じられてしまうことがある。

先程noteの中で林真理子先生の記事から、小池真理子の作品を夢中になって読んでいた頃を思い出した。
そして、何より読みたい・・・、と強烈に思ったのである。
私の中にたくさんのものを吸収したい。
今の私は枯渇している。
文字に飢え、新しい出会いに飢えている。
現実の人間よりも文字の中に生きる人々に出会いたい。

明るい情熱をもった、まっすぐに夢見る人たちと出会いたい。
そうすれば目の前の憂さも晴れるかもしれない。

ああ、生徒に思いが届いていなかったのか?
あるいは、
ああ、何も伝わっていなかったのか?
と思って愕然とする一方で、私は時に自分自身のことも疑ってしまう。
勘違いではないか?自分の考え過ぎではないか?

とはいえ、大抵自分の感じたことというのは正しくて、悲しい結末になることが多い。
今、私は一人の人間としては、離れたい人がいる。
目も合わせられない。正直姿も見たくない。
いい年してショックを受けている。
そしてそのショックの正体が分かった。

今朝、悩みに悩んでいた。

もし我が子なら、

大学受験、やめなさい!

と叫んでいたことだろう。
大学受験より大事なものがある。人のことをそれだけ粗末にしておいて、そんなあり方して大学合格してもその先いったいどれほどの人になれるって言うの!?それに、そんな考え方してたら、合格しないから!

我が子ならそう言い放っただろうことが、お預かりしている生徒さんなら、ショックになる。
教師として、何も伝えられていないではないか!
そんなこと容易にさせてしまうような教師なのか!?

新卒で勤めた学校の先輩方なら、きっと、

お前が一人の生徒にのめり込むからだよ。
だから生徒を信じちゃいけないって。
生徒は裏切るねんで。

とおっしゃるだろう。
信じて信じない、というスタンスを教えていただいてきた。
でも人である。
他の人に見せない姿を私には見せるということもある。
それをさせてしまった自分が情けないのである。
教師になって、いったい何年?
教室開いて、何年経つの!?
どうしてそのことに気付かなかったの?
生徒に不徳積ませるような、合格から遠ざかるようなことをさせておいた罪はどうなるわけ?

そう思って悩んでいたのである。
親としてなら、それはしつけの問題である。
教師は仕事である。
責任の性質が違う。

どこかに心を潤す文章がほしい。
いやいや目の前の本でいい。
ちょっと立ち直らせてほしい。

などと若い若い悩みを見せている自分がまたあほらしい。
まるで新卒ではないか?

あああ、明後日国公立二次試験。まだまだ私大も続く。
三月八日は県立入試。
こんなこと言ってる暇人か!?というような、時間がない中で悩んでいる私に一番呆れているのは私である。

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