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自分の「文体」を手にいれる

「作風」を持つことに憧れる

 漫画を描いたり、たくさん読んだりしていると、「画風」という言葉がなじみになってくる。絵を見れば一発で「あの作家だ」とわかること、漫画家を志すときには、そういう作家に自分もなることが憧れになる。あとはどんな作品を描いても「〇〇先生の世界観」と言われ、喜ばれるようなもの。少年漫画だと荒木飛呂彦がわかりやすく特徴的かもしれない。

 作家でいうと文体になる。言葉の選び方や、漢字とひらがなのバランス。文の流れ方。村上春樹ほど特徴が前面に出ていなくても、何段落か読めば、初見でも「この作家かな」と見当がつくような。あとは、作品をいくつか読んでみて、全体に描かれるテーマに一貫性があるとか。作品自体が持つトーンみたいなものもある。哀愁とかシニカルさとか、みずみずしさとかいう言葉で表現されるようなものだ。

吟遊詩人の威力

 小学生の時は文章の本がなかなか読めなかったと言ったが、好きすぎて本のうちに入れなかったほど熱中した物語がある。久美沙織による「小説ドラゴンクエストIV」だ。今でいうラノベが形作られる前のゲームノベライズだった。

 久美沙織は少女小説からファンタジー作家に移行していったらしく、確かに女性目線に耽美で妖艶な世界観があった。というか、私はこの作品で耽美とか妖艶を知った。
 各章には「吟遊詩人による詩」も提示されていて、そこで使われる語彙が、小学生にはわからないものもあったけれど、滅多に鼻血を出さない自分の丈夫さが憎いほど、いっそ鼻血を出したいくらいに憧れた。

 このとき、私に第一次シナリオブームが起こり、ノートに漫画を描いたりシナリオを書いたりした。でも、私はただ頭の中に広がる世界を紙に写しとること、そのものがやりたいことであって、その結果作家になりたいとは全く思わなかった。
 久美沙織の語彙力や、世界観がすごすぎたので、ここまでのことをできなければいけないなら、自分は作家にはなれないと思っていた。挫折感さえ感じていなかった。

 夏目漱石と並んで、久美沙織のドラクエ4小説も、私の「小説とはこういうふうに世界を再創造し、読者を没頭させるもの」というスタンダードを作った気がしている。

現代作家に着地する

 私が地に足をつけて「小説」を読み始めたときには、吉本ばななや江國香織を手に取った。姉が持っているものを借りたのだった。吉本ばななが与えてくれるイメージや人生のロールモデルは鮮烈で、「吉本ばななみたいに書けば、自分の心の世界が描ける」とさえ思っていた。成熟しきれないけれど肉感的な雰囲気。ただ他に引き出しがなかっただけと言えるんだけれども。

 当時も小説家になりたいとはつゆほど思ってなくて、デザイナーとして生きていた。blogを書くときの文体や、考え方の表し方は吉本ばななをかなり意識していた。

 十年くらい経った。ある日、母親がおすすめする本が届いた。内田洋子の『ジーノの家』だった。物語仕立てのエッセイ集だ。ジャーナリストのせいか文章が鋭利でとにかくかっこいい。私は吉本ばななというユートピアを離れ、削ぎ落とすことをよしとし始めた。

自分らしさが確立する

 自分の作品世界、とくに文体を形作っているのは、上記に挙げた作品や作家だ。これらの変遷がすべてミックスされていると言っていい。

 以上の「文体」をもって作品を形作っていくわけだが、実際に自分も長編を書き上げてみてはじめて気がついたことがある。テーマとまでは言えないけれど、作品に持たせたい「トーン」はこれかな、というのを掴み始めた話を、次回したい。



 何者でもないアラフォー女性が、35万文字の物語を完成させるため、作品を作り続けるための全努力をマガジンにまとめています。少しでも面白いと思っていただけたら、スキ&フォローを頂けますと嬉しいです。

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▼文体について考え始めた記事

▼小説教室の体験をまとめた記事

▼創作活動の方向性を模索した記事


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