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自分が生み出したキャラクターを全員愛せるか


クリエイティブな人と瞑想の相性

 漠然と、クリエイティブな人は瞑想と相性がよさそうな通念がある。

 私は、座って何もしないタイプの瞑想が苦手だ。瞑想アプリを使っていた時期は、もっぱら入眠用に活用していた。

 瞑想しているうちにすぐに眠くなるし、それより以前に何も考えないということができない。

 「人は何も考えないことができる」というのを知ったときには、35、6歳になっていた。最近だ。むしろ、何も考えないことができる人がおり、そういう人の方が多いと知った時の衝撃と言ったら。今でさえ信じられない。意識してないだけなんじゃないのか。どこかに押し込めているだけなんじゃないのか。

今誰かに「いや、人は常になんらかのことをごちゃごちゃ考え続けてるもんですよ」とコメントされたらすんなり認識を上書きできる。

 私は朝起きた時、正確には夢から覚め始める時にはもう考え始め、日中も考え続け、夜に布団に入った時になってやっと回転がスローダウンしていく。ごくごくたまに、布団に入ったままずーーっと脳を半分覚醒させている夜もある。

考え続ける自分を受け入れる

 「自分は常に何かを考えている、これは普通の状態ではない」と自覚してからしばらく……実際は数ヶ月だったと思うが、「考えなくなること」にちょっと努力した時期があった。物の一点に集中するとか、物事の解釈の仕方を変えてみるだとか、座っての瞑想をもうちょっと練習してみるとか、果ては投薬だとかを……。

 頭がぼーっとなるタイプの薬を処方してもらい、飲み、気がついた。

「考え続けてる自分が好きだ」と。私は考えたい、考え続けたい、考えている状態も、その自分も好きだ。

 考えない努力と一度向き合ったのはいい経験だった。「考えなくなること」をすっぱりと諦めることができた。自分が人よりくよくよしてしまうのも、そもそも「考え続ける自分」による負の側面だったのだ。考えている内容をポジティブで質の高いものにしようと思った。出力機は回り続ける。それならば乗せるレコードを変えるのだ。

過密思考型の私のキャラクター設計

 基本的なキャラクター設計についてはロバート・マッキー氏による『キャラクター』に全面信頼している。(アフィリエイトは貼っておりませんので安心してお踏みください)

 マッキー氏の著作に基づくキャラクター設計を、自分がどう活用したのかも過去に記事に書いた。

 記事の要約としては、キャラクターの履歴書を作るのでは無く、キャラクター同士の関係性を重視したということを書いた。マッキー氏は、キャラクターの職業や嗜好などは作者が誰よりも知っているべきだと明言しているので、最終的には、キャラクターの履歴書を埋められる状態になっていることが望ましい。

 私が心がけたのは、キャラクターを「作る」という作業が創作の「始め」にあるのではなくて、読者が読み進むほどにキャラクターを知っていくように、私も書き進むほどにキャラクターを知り、発見していったということだ。

 自分の頭の中はある種のコワーキングスペースとかスターバックスのラウンジみたいなものをイメージしている。いろんな人がいろんなことをしている。会話や環境音も飛び交っている。

 その中にいる人々の中から、物語に必要なキャラクターを、「キャスティング」してきたような感覚がある。キャラクターを「作る」という作業は、「知る」作業に近い。

 それでも、自分から歩み寄らない限りは、キャラクターは壊れたレコードのように同じ場面を繰り返すか、ストーリーには関係ないエピソードを生成し続ける。カフェラウンジにいる人たちが、ずっと同じことをしているように見えるのと似ている。

 私は彼らを呼び出し、「あなたは誰?」「この場面ではどんなことをするの?」と問いかけ続ける。キャラクターをよく知ったあとは、自分も彼らの思考や動作や表情を真似してみたりもする。一連の作業がキャラクターを作りあげていく。

 自分が立ち上げたストーリーの世界において、キャラクターたちが持つ究極的な役割も徐々に明らかになっていく。

キャラクターを通して理想を実現する

 物語を作ることは、現実逃避というよりも、現実を通して自分が見つけてきた理想や真実の蒸留、精錬作業だと言える。

 現時点で孤独な創作者である私の理想をキャラクターに投影しなかった、とは言わない。世界のあらゆる事象の中で、腑に落ちないこと、絶対にそうではないと言いたいことは山ほどある。しかし「NO」と言い続けることにエネルギーを使うのはもう嫌だ。
 自分が何を信じているのか、何に対してなら「YES」と言えるのか、キャラクター設計を通して明らかにし、設計したキャラクターに大いに語らせることになった。

究極にいい男

 独身アラフォーの私は、結婚どうするとかパートナーどうするだとかの命題を一通りかいくぐってきている。
 いろんなタイプのシングルがいると思う。私は、物語を書き上げるためには孤独でいる必要が確かにあったので、結論から言えば、今の状態に不満はない。朝起きてから3時間くらいは誰にも会いたくないし。

 恋愛観について言えば、どんな人も持ち合わせる、一つ二つのいいところが宝石のように感じる。私からは、人間誰しも自己充足した存在に見える。それが故に誰とでも恋愛できる可能性を感じてしまう。そんなんなので一人に選ぶことなんてとてもできない。

 相手に好かれるということは、自分も相手を多少なり好きということなのかな、とか感じていた時期もあった。それはグレーゾーンだ。ただ寂しい人、相手を支配したいがために近づいてくる人もいるからだ。本人でさえ、恋愛が支配欲の発露だと気がついてない場合がある。惹かれあっていても恋愛をする準備が片方に整っていない場合もある。

 そうした現実を見てきた中で、自分が究極的に「いい男」と思える男は何か。物語を書く中でそれを表現しようとしていることに気がついた。2方向に分かれた。片方は主人公に、片方は主人公の師的存在に、理想を分散させた。

 主人公には「忍耐」を持たせた。彼の師的存在である偉い人には「寛容」を持たせた。共にコインの表と裏のような性質がある。

 それだけでは薄っぺらいので「忍耐/抑圧」「寛容/魔性」という相反するというか副産物的な矛盾を持たせて、ただのいい男では終わらないように工夫もした。

 自分に襲いかかる災難を忍耐を持って受け止めるが、心の片隅には鬱憤が溜まっていく主人公。寛容さを持ってあらゆることを包み込むが、自分に近寄ってきた人々を幻惑させて楽しむ偉い人。主人公には憐れみの心がくすぐられ、偉い人には羨望が募る。彼らのいい男エピソードが浮かぶたびに、「いい男入りましたァァーーーー!」と号令がかかる。脳内カフェラウンジなら、「ハンサム・ヴェンティ・プレーゴォ!」かもしれない。

対して女という生き物

 自分が女性なだけに、女については幻想がほとんどない。そのせいか、ヒロインが現実的すぎて最後まで薄っぺらいというのが、物語の課題になった。究極にいい男たちに挟まれるヒロイン、という逆ハーレム状態にしたいわけでもない。
 なので、ヒロインの課題はいい男たちが提供してくれるものとは別のところに持たせることにしたり、男たちが持つ課題からもちょっと距離感のある、自分一人で生きていけなくもないヒロイン、というのを考えた。

 女が考える究極にいい女、というのは、今後の作品で実現したい気もする。

究極の悪

 行為としての悪を追求するならば、どこまでも残忍な描写が考えうるが、そういった残忍さを生み出しかねない人間の性質とは何か、を考えた。

 今回の物語で、それは「自己欺瞞」ではないかと仮定することにした。goo辞書によれば、「自分で自分の心を欺くこと」とある。

 自己欺瞞が生んだ悪の権化は、アニメ『魔道祖師』にも登場する。

 私の物語の中では、「どのキャラクターが」というよりも、物語の影を担うグループに属するキャラクターに、自己欺瞞からの行動を散りばめた。

悪のキャラクターを愛せるか

 物語を作るということは、神の創造のわざを、自分がとても小さな次元で追体験している状況だと、恐れ多くも言えるとしたら、神が作った人間という存在が、物語制作におけるキャラクターだと位置付けることができる。

 それを前提にしていうならば、自分が生み出したキャラクターは、どんな小さな者でも、悪の性質が強いキャラクターであっても愛の対象である。

 つまり愛というのは感情の昂りに終わるものではない、ということの学びにも通じる。

 キャラクターは作り物だけれども「嘘」ではない。私はキャラクターを信じている。

 仮にこの先自分の読者を得たとしたら、読者の誰よりも自分が自分の物語を信じているし、自分のキャラクターを信じる。

 自分に嘘のない物語を作り続けることは、自分の心を欺くという、根源的な悪との戦いに勝利することにもつながると思っている。


 次回は、第一稿を書き上げた私が、第二稿に突入する、ということを書きたい。
 お読みいただき、ありがとうございました。


 何者でもないアラフォー女性が、35万文字の物語を完成させるためにやった全努力をマガジンにまとめています。少しでも面白いと思っていただけたら、スキ&フォローを頂けますと嬉しいです。


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