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推敲で発揮される創造性


 私が師と仰ぐある牧師がいる。高齢だがご存命である。私は今でこそ北海道に帰ってきたが、東京にいる頃はコロナが始まるまでは毎週彼のメッセージを聞きに、教会に出かけていた。

 教会に行きはじめて知ったが、「メッセージ」とは、それまでは「説教」だと思っているものと同じような位置付けだ。教会に集う人達はみな「メッセージ」と言うので、時代のどこかで呼び方が変わったのだろう。もしかしたら教派によっても違うのかもしれない。

 「メッセージ」にも種類があることを知ることになった。つまり

  • テーマメッセージ:「愛」とか「赦し」などのテーマに沿って、しばしば聖書の文面(聖句)を引用しながら、牧師の例話(アイスブレイク的な話や例え話)も交えつつ行う講義。

  • 伝道メッセージ:未信者を信仰に導くために行うメッセージ。信者を励ますために行うものもこれに入るのだろうか。

  • 講解メッセージ:聖書の解き明かし(解説)を行うメッセージ。牧師による例話は1割か2割と抑えられる。

 以上は私の解釈なので、教会員ごとに捉え方が違うかもしれない。

 先生は毎週の日曜日に主に「講解メッセージ」を行っていた。彼が言うには、毎週テーマメッセージを考える苦労からは解放されたらしい。テーマメッセージはテーマの設定からそのメッセージが行き着く霊的な洞察まで……つまりは起承転結を一回ごとに考えなければいけないのが大変らしい。

 講解メッセージを選択したなら、やることは毎週決まってくる。今週ヨハネの福音書3章15節までを解説し、来週は3章16節から再開する。牧師は選んだ書物の中に理解が曖昧な箇所があっても逃げることができない、という戦いと向き合うことになる。

夜明けが始まる前に、顔を上げなければいけない

 創作を始めて第六の月は精神的に辛かった。
 おそらく仕事を辞めて緊張が解けたのもおおいに作用したのだろう。朝は根の張ったような布団から体を引き剥がすように起き、人生において五里霧中のなかを、一歩ずつ進んでいった。
 もし、自分の設定した目標が長距離ではなくて、「一週間に短編◯本作る」とか「本や映画の1000本ノック」とか「noteに毎日投稿」とか「SNSでフォロワー獲得」とかだったら、モチベーションが折れていたかもしれない。私は長い物語を支え、私も物語に支えられていたのだ。

 一時はどれくらい追い詰められていたのかと言うと、会社が離職票をなかなか発行してくれなかったので、雇用保険の手続きができず、経済的に不安だった。季節は冬だ。家からは枯れた雑木林が見える。処方された入眠剤がある……と言うところから連想される悲しい結末を考えないでもなかった。
 でも今までの人生ではもっと酷い状況が何度かあった。私自身がたかを括って人に助けを求めるということをせず、状況を悪化させていた。
 困っているときは、結局のところ誰かに何かの形で助けてもらわないと立ち上がることはできないだろう。今5ぐらい手伝って貰えばいいところを、放置すれば10に、果ては50にも100にもなってしまう。

 今回踏ん張ろうと思ったのは、具体的に何がどうなったからということはなかったように思う。ある日冷静になって、数ヶ月後に無一文になるかもしれないけど、少なくとも今はそうじゃない、やるべきことがあると思ったのだった。小さな声ではあったけれど、その日から確かに何かが変わった。自分の内面が変われば、それは外にも必ず現れる。それが証拠に、私は今作品を書き上げてこの文章を書いている。

 何が私をそうさせたんだろうか。執筆中、私がリアルに会って言葉を交わしていたのは習い事の先生と、整体師の先生と、母親、あとはクリニックの先生くらいしかいなかった。皆、二週間に一回、数ヶ月か1ヶ月に一回会えればいいほどの関係性だ。
 何が人に希望を与え、できないと思ったことをさせる勇気を与えるんだろうか。人々の運命には沈黙を守っているようでいつつ、個人の思いに応えて日毎に生きるいのちをお与えになるのだろうか。問いかけに終わらず、私は本当にその意味を掴み取りたいと切望している。知りたい、絶対に知りたい。そのためには自分に与えられた物語を知り尽くすより他に方法はない。

新しい言葉が今日も生まれる

 文体は究極的にはなんだってあり得る。
 句読点が少なく、改行も少なく、海苔が張り付いて見えるような文体もありえる。パソコンで出せる限りの記号を駆使して読者を撹乱するのも文学としてあり得る。だが文字が基本的には意思疎通のためにあり、自分は想いを伝えるために文字を駆使していることを踏まえると、基本を知っておくのは重要なことだろう。

 物語の推敲の過程で、括弧「」の種類や使い方を調べてみた。
 基本となる「」『』()以外にも括弧はいろいろある。それぞれの意味というのは「強調」以外には明確には設定されていないように思える。共同通信社による『記者ハンドブック』にも、基本の鉤括弧の使い方意外には言及が少ないようだ。あくまで新聞記者用の情報ではあるが。

「」のルールについてもまちまち

 「」は基本的にセリフに用いられるとして、「」の文末には句点を入れないというのも決まりだという。つまり

:「セリフの最後には句点を使わないんだって
:「セリフの最後には句点を使わないんだって」

 さらに「」の前は、地の文の段落のように一字下げもしない。つまり⬜︎が字下げをしたスペースだとすると以下のようになる。

⬜︎三郎は言った。
「セリフの鉤括弧の前は字下げしないんだよ」

 ついでに「」の中は、改行しない。以下のように書くのは間違いだとされる。

⬜︎三郎は言った。
「セリフの鉤括弧の前は字下げしないんだよ。
⬜︎あと、改行もしちゃいけないんだってさ」

 しかし私は発見してしまった。西加奈子の『漁港の肉子ちゃん』には鉤括弧の文末に句点があることを。(西加奈子の他の作品はどうかは未読)

西加奈子|漁港の肉子ちゃん より

 さらにテッド・チャンはセリフ内で改行していることを。

テッド・チャン|不安は自由のめまい より

 テッド・チャンが改行するのは、日本文学ではセリフはあくまで会話の色合いが強いのに対し、西洋の発言は「弁論」の意味合いがあるからかもしれないとか妄想してみたり。

 カフカの「城」やドストエフスキーの「罪と罰」に特徴的な長広舌はどうだったかなと調べ直してみたけれど、河出書房新社の世界文学全集に収められているものについては、セリフの改行はない。だから余計に畳み掛けるような印象がある。

 この辺りの表現の幅は、私よりももっと小説を読んでいらっしゃる方々には珍しいことではないかもしれない。

個性はパクチーである

 だからやはり立ち返るべきは「自分がこの作品を通して言いたいことは何か」に尽きる。私がとった方法は「オーソドックス」である。基本的には原理原則に基づき、簡潔で読みやすい地の文、適度な改行と句読点を心がけた。

 物語のジャンルがファンタジーだったので、読者にとってはそれで十分に異質なものであるから、読者を導く文体は違和感が少なくなるよう心がけた。自分の言葉としてそうとしか言えないものに関しては、自分なりの表現をしたが、その文面だけが前のめりになって主張を強めているところは、どんなに美文だと思っていても刈り込んだ。

 以前漫画の勉強をしていたとき参考にしていたイラストレーターのYoutuberが言っていた。「個性はパクチーとおなじ。ほんの少し入っているだけで強烈に存在感がある。個性を押し隠したとしても必ず滲み出る」と。

全ての情報のレベルを均一にする

 文章の完成形としては、全ての情報の一体感を目指したい。

 たとえば、初稿は下記のように文章ごとの情報量だったり質だったりががまちまちな状態だとする。

 ここから、余計な情報を削り、足りない情報を足し、表現の誤りを訂正していくと、物語の完成度が上がっていくのではないかと、まずは考える。

足りない情報を足す(赤) 盛り過ぎたものは削る(灰)

 で表したところに、特に労力を注ぐことになる。描写を盛り込むために、新しい資料を探したり、語彙を探したりする必要がある。

 ここで、省エネする方法はある。の労力を減らすため、他の情報量をもっと思い切って刈り込むのだ。

 するとどうでしょう。物語は成立するが、点線で示したように完成度は下がることになる。これをどのように許容するかは一考の余地がある。

 もう一つ言いたいことは、全ての情報の粒度を揃えるというのは、会社の資料だったら非の打ちどころがない方法論だとおもう。実際この手法で練り上げた資料で、部長に提案を通したことがある。しかしここは物語の世界。推敲の方法論でもクリエイティブになれないだろうか。

 つまりは下記のように頓知を効かせて、わからないところはバッサリ切り落として情報量を落とす。いっそ存在自体を消す。さらには自分の強みとなる情報を磨いて盛る。

 すると最終的な完成度は、低いところと高いところの平均値ではなくて、高いところに偏っているように見えはしないかと思うのだ。

 自分の物語で書きにくいシーンにどう取り組むかは、以下のnoteでも考察している。

 もちろん推敲は文章の入れ替えや挿入など、他の要素もある。これは私の思想実験もあるので、今はあまり深入りしない。


 お読みいただきありがとうございました。


 何者でもないアラフォー女性が、35万文字の物語を完成させるためにやった全努力をマガジンにまとめています。少しでも面白いと思っていただけたら、スキ&フォローを頂けますと嬉しいです。


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