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映画『PERFECT DAYS』考察 タイトルに込められた意味とは

先週、何気なく観に行った映画『PERFECT DAYS』について思いがけず6,000字近いレビューを書いてしまった。
 
淡々としていながらも、その余白に思いを巡らせずにはいられない不思議な感触の本作。

その中で「あれってどういう意味があったのかな…?」と引っかかりのあるシーンがあったのでぼんやりと考え続けていたが、ようやく腑に落ちる考えに至ったので追記しておきたい。

やはり、これは大人のための映画だ。


※以下ネタバレを含みます



大人と子供の世界の違い

母への反抗心で家を出、疎遠になっていた平山の元に転がり込んだきた姪 ニコと過ごした最後の日。銭湯から帰り道、橋の上で自転車を止めたニコが遠くを眺め「このまま海の方へ行ってみたい」と言い出す。

その無邪気な提案を「また今度」と軽くいなされ今度はいつなのかと引き下がるニコに平山が「今度は今度、今は今」と節をつけて歌うと、ニコも真似をしながらなんとなくその場が流れてゆく。

本当に海に行って帰ってきたらどれぐらいの時間がかかるか、結果どうなるのか。経験からそういった様々な見通しをしながら大人は生きている。大人びたように見えてもまだまだ無垢な子供であるニコと平山の対比がここで描かれた。

銭湯のシーンで平山がどこかに電話をしている描写があったので、ニコと過ごせる時間はもうすぐ終わることも平山は知っている。

銭湯の常連達が二人の姿を物珍しく眺めたように、やはりどうやっても二人の住む世界は異なり、一瞬交れど離れてゆく。父と娘にも見えなくはないかもしれないが、やはり実際の父娘ではないため微妙なところである。

ニコはまだ保護されるべき年齢の子供。いくら母親との折り合いが悪そうに見えても結局は母親の元に戻さなくてはならない。

また、男女という性差の壁もある。平山が叔母であったなら許可さえあればもうしばらく家に置くこともできたかもしれないが、必要以上に関わらないことも平山の大人としての配慮だ。

彼女との心洗われるような時間が決して永遠ではないこと、そしてニコをなだめるために示した“今度”はおそらく訪れないことを、大人の平山はよくわきまえているのだ。
 

なぜこの一見シンプルな映画の山場として突然姪が訪ねてくるシーンを描いたのか不思議で仕方なかったが、この少女そしてその母との対比こそが平山の過去そして現在を物語るのだと今やっと腑に落ちた。

妹の「お父さんも今は変わった」旨の台詞があるが、人が変わってしまうほどの年月が経ってもなお許すことができないほどの深い確執を父との間に持つ平山は、おそらく幸せな子供ではなかっただろう。ニコもまたそうなのかもしれないが、彼女にはまだ親元で育むべき未来がある。平山は彼女を愛おしく、そして眩しくみつめる。

 

 

妹との世界の違い

ニコを迎えにきた母親、つまり平山の妹とはどうやら久方ぶりの再会だったと見える。

会話から察するに父親と絶縁状態の平山が実家に戻ることは今後も無く、妹ともよっぽど会うことはないだろうことがあの抱擁と涙から窺い知れた。

運転手つきの車で乗りつけた裕福な妹が「本当にトイレ掃除をしているの?」と怪訝な顔で聞いたとき、いつも通り微笑む平山の心中はきっと穏やかではなかっただろう。

ニコと同じように妹とも、平山は毅然として繋がりを断つ。時を経てもなお、平山が父親を許せない意思はここで明確に描かれた。

妹とまで線を引くのは単純に生活レベルの違いかもしれない。どちらにせよ、自分の心を守るためどうしても一切を断たねばならない心情を察すると、なんとも言えない気持ちになる。


 

小料理屋のママとの世界の違い

だれにも深入りをせず淡々と自分の世界の中で暮らす平山だが、作中で少しだけ饒舌な姿を見せたのが行きつけの小料理屋のママの前だった。

どこか孤独を匂わせる彼女に唯一、平山は「自分と同じ世界の者なのでは」と心の繋がりを感じていたのかもしれない。

しかし運悪くママが元夫と抱き合っている場面に遭遇してしまい、彼女の過去を伺い知る。しかも彼女にはまだ元夫への愛情がある…そう繊細に察してしまった平山の気持ちを想像すると切ない。

これは私の個人的な推測だが、このとき平山は失恋した…というより、失望したのではないだろうか。

人と繋がりを持たないよう自らのフィールドに線を引いて生きてきた平山が、繋がりを求めてしまった結果としての失望。なんとも残酷な構図である。


 
 

あのCMとの似て非なるメッセージ

この映画を観た時の感触があまりにもクラフトボスのCMに似ていたことで、前回の記事で「これはあの CMの映画版なのでは」と書いた。

しかし時間が経つにつれじわじわと、似せておきながら実は全く逆のメッセージをこめた映画なのではないか…という気がしてきた。

同じく役所広司(敬称略)演ずるクラフトボスのCMでは、世代を超えた人々の微笑ましい繋がりを描いている。それに対し、まるで近しいトーンで本作は役所広司に「この世界は繋がっているようで、繋がっていない」と言わせる。

この言葉の意味が初見ではピンと来なかったのだが、あれは他者の世界と自分の世界のあいだに線を引いて生きてきた平山ならではの人生哲学だったのだ。

線を引くことは大人になる過程での諦めでもあるし、一人でこの世界を生きていくための慰めでもある。

異なる世界に住む者同士は、意図せずともあらゆる場面で相手を傷つける。そして世界の違いを思い知るのはたいてい傷つけられる側だ。人と人の間にある“住む世界の違い”を意識しなくていいのは、限られた環境で生きる子供のうちだけである。
 

住む世界の違う他人に期待したり、もたれ掛かることを避け、自らの力で完璧な日々を作り上げる。自主的に選んだ、というよりそう適応してゆくしか平山の生きる術がなかったのだとしたら…それははたして“しあわせ”なのだろうか。

いや、人が生きてゆく以上、私たちは多かれ少なかれ “しあわせ”を追求し続けなければならない。平山もそうだ。そうでなければ人は前を向いて生きてなどいかれないのだ。

 
 

2通りの捉え方ができる作品

タイトルの『PERFECT DAYS』についても違和感をずっと持っていたが、時間が経ってみてぼんやりと二重の意味に感じられてきた。

清々しく心地のよいミニマルな暮らしに感銘を受けるための映画と捉えることもできるし、暗い“過去”を持つ平山が積み上げる“今現在”について想いを馳せる映画ともとれる。
 
タイトルと合わせてポスターに添えられた「こんなふうに生きてゆけたなら」というコピーも、清貧な暮らしを讃美する意味にも聞こえるし、平山と同じように過去に傷つき囚われ続ける者たちへ贈ったエールとも捉えられるのだ。

人は人と比較することで初めて不幸となる。彼の今現在の幸せは他者と心地よい線を引くことで作り上げられた絶対的な世界、すなわち『PERFECT DAYS』。

どんな人生であっても、自らが“今”を肯定していくべきだ。そうできるのは自分ただひとり。それを寡黙に体現する存在が平山であり、この作品だった。
 

ただただ美しい作品に触れるのは心地よいが、人の心の複雑な部分を丁寧に扱い、目を逸らさずに描き切る作品が私は好きだ。
 
喜びや幸せの色は割とシンプルだが、人の悲しみや孤独こそ、人の人らしさ、無限のグラデーションを持っているように思うからだ。


人は皆それぞれシミのように消えない過去を持ちながらも日々を着実にこなし、身の回りの存在に愛を持って過ごすことで前を向いて歩いていける…そんな提案にも感じられる映画。

制作側の意図がどのようであろうとも、観た者の胸にちいさな希望を灯す作品であることは確かだ。

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