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恋と孤独とコミュ力と…そしてムンク


今年はのんびりと余白を持って、
そのぶん読書をしようと思っている。

今年2冊目の読書はこちら。


もっと知りたいムンク 生涯と作品


Amazonで買おうとカートに入れていたら図書館でみつけたのでラッキー。
(出版社の方、売上に貢献できずすみません…)

ムンクといえばあの有名な『叫び』だが、あのキャッチーさというよりは、どちらかというと私は他のムンク作品全体にたちこめる異様な不穏さに惹きつけられていた。

得体の知れない歪さに「これは一体なんなんだ!?」と好奇心をくすぐられるのだ。

そして、彼の描き出す不安や孤独にどこか共鳴するような気持ちでいた。


おそらく誰が見ても一目瞭然な“病み”側の画家であるムンク。今まで特に生い立ちなど知って作品を観ていなかったので、今回あらためて人となりを調べてみて驚愕した。


めっちゃリア充なのである。


いや、作品イコール作者であることを望んでしまうのはファンの傲慢だとわかってはいるけれど…

「作品が虚像なんじゃないか」と思えるとき私はいつも裏切られたような気がして萎えてしまう。

彼の絵から激しく匂い立つ不安感や、己すら信じていないかのような孤独感。それが覆されたらなにを信じて絵と向き合ったらいいのだろう。


まず、彼は意外と都会に染まった生活をしている。そして行きつけの盛り場に入り浸ったりもしている。つまり積極的に人と人の間で生きている人だった。

いくつになっても人見知りの私からすると「ムンクちゃん…遠くなっちゃったな…」と一筋の涙を流し手を振りそうになってしまうのだが、そんな身勝手な私にさらに追い討ちをかける事実が。

 
女性遍歴、華やか過ぎる。


派手な女とばかり付き合っているのだ。盛り場に日常的に出入りしていれば当然出会いが増えるものだが、尖った仲間達とつるんでいたムンクが20代はじめ頃に関係を持ったのはよりによって界隈の華方でもあった年上の人妻だった。

幼い頃から母親や妹を亡くし自らも病に怯えて不安を抱いてきた彼にとって、余裕のある年上女性は思い切り身を委ねられるような女神として映ったのかもしれない。

その後も権威ある友人の妻やらワイン商の娘やら才あるヴァイオリニストやら…とにかく魅力的な女性達と、立て続けに関係を結んでしまう。そして絵に描いてしまう。


絵の中に彼自身が描かれる時にはいつも、記号的に青白い顔で俯く青年が描かれていた。それなのに「なんだ実際には人生楽しんでんじゃん」と私はいじけてしまったのだ。

(私の中に棲む、永遠に癒されぬ非モテちゃんはこういうときに顔を出すので厄介である)


本を読み終えた翌日、まだ頭の片隅でほんのりムンクのことを考えていた。そんなときふと思った。

恋多き彼は、本当に満たされていたのだろうか。


彼の絵に出てくる女性達はみな艶かしく非常に魅力的だ。その反面、魔物のように恐ろしい。それは彼の目からとらえた女性という存在そのものだろう。


精神面で常に不安を抱えていたムンクに手を差し伸べたのは、下心を持って己の欲のために互いを貪り合うような女達ばかりではなかったか。

身体を重ねることで一時的に寂しさは拭われ、暖かな繋がりが生まれたかのような達成感が得られるかもしれない。いわば、お手軽な相互理解。

しかし、ムンクに本当に必要だったのは心に寄り添うような静かなコミュニケーション、つまり、会話だったのではないだろうか。



女性関係が深まるたび一方的に逃げ出したとされるムンク。長年交際し結婚を迫った女とは銃撃事件にも発展し大切な片手の指を失った。

孤独ゆえに強烈にだれかを求め続け、愛に見えるものに依存し、深く健全な人間同士としての関係を続けることができなかった…もしそうだとしたら、なんと報われないのだろう。

表面上華やかな生き方をする彼には孤独などなかったはずだ、そんなふうに早合点したことを一人じわじわと反省したのだった。


 

恋とは、人同士の結びつきとは、いったいなんなのだろうか。ムンクが翻弄されてきたように、激しくて危ういものなのだろうか。
 

魅力を感じ、求め、手に入れたいと願うときの胸の高まり。近づきたい…心に開いた穴を埋めたいとか、同化したいとか。たぶんそんな欲求。

恋は、人間が根深く抱いている孤独を解決するような動きにも思える。ふたつは切っても切れない関係なのかもしれない。


 
身体同士の繋がりは直接的で手っ取り早いようにも思えるが、私たちが本当に望む同化とはもっと深い部分での結びつきなのではないか。


人間同士は心を見せ合うことができないため、コミュニケーションの方法として主に言葉を使う。

厳密に言うと言葉の交換だけではないけれど、会話というコミュニケーションを重ねて重ねて、ようやく到達する満足感。お互いを得たかのような、心を重ね合えた喜び。
 

本当の恋の達成は決してフィジカル面のコミュニケーションの充実だけでは成し得ないし、手間のかかる心の交流を諦めてはならないと思うのだ。

そして身体的魅力は時と共に衰えてゆくけれど、心やコミュニケーションはいくつになっても磨いていける。
 
 
 

人と関わることを…コミュ力を。
いつまでも諦めてはならない。

私たちはゲートボール場でも恋ができるのではないか、そんなことを思ったりする。


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