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オトナの恋バナ(妙齢のひとりごと)

時々「妙齢」という言葉を聞くが、私は「妙齢」のことをずっと40から50代くらいのオトナの女性を指すものと思っていた。調べてみると年齢の定義はなく「女性の一番美しい年齢」とのことらしい。その定義であれば私は今が妙齢だと思う。もちろん外見は若い頃の方が美しかっただろうと思う。今や外見も中身もかなり使い込んだ跡があるけれど、なかなかいい味を出しているような気がする。だから今の私の方がたぶんだけれど魅力あると言い切れる。

最近では「恋」の話をすることが少なくなり「妙齢」はそういう話をしてはいけないような雰囲気もある。しかしだからこその恋バナもあるのかなと思う。

パートナー。私の中では竹野内豊と勝手に思っている。たぶん傍から見たら全く違うと言われるかもしれないが私がそう思っているのでそれで良い。そして私が持っていない感性や行動力、口が悪いなと思いながらも本気で話す姿は長い付き合いであるが都度惚れてしまう。

年上でありながら少年のようなところがある。マイブームというのが時々おとずれ、都度モノが増えそのマイブームを意気揚々と語る。私は「また始まった」と微笑ましく見守っている。カッコいいものがスキらしい。しかも流行り物というわけではなく独自の美徳で行動している。先日はギターがマイブームで、あれやこれやビンテージギターを買い込んでは「これは何年ものでー」と解説をする。そしてギターだけでなくアンプまで買い込む。そのアンプどこで使うんだと思うがとにかく手に入れることが嬉しいらしい。しかも彼は「ギターが弾けない」。それでもここまで熱くなれることが羨ましくもある。最近はそのマイブームが去ったらしく少しずつ売ったりしているようだ。

パートナーだけでなく男性は「モノ」にハマる人が多いような気がする。私自身は「モノ」にハマったという記憶があまりない。コスメやスマホケース、などにこだわりを持つことはあるが、それ自体にハマっているわけではなくその先の「美しさ」や「かわいさ」に興味がある。男性は「モノ」、女性はモノの先にある「目的」に興味といった傾向があるのかもしれない。あくまでもサンプルは私の周りの数少ない友人である。

そんなパートナーとの関係であるが、一緒でないときの行動についてはあまり関知しない。最低限生存確認さえできれば良いくらいに思っている。パートナーだからといっても踏み込んではいけないエリアがある。だからときには見て見ぬ振りをすることもある。

大切な人のことはすべてを知る必要はない。
知らなくていいことは知らなくてもいい。つかず離れず。

そう思えるのは長い年月で培った信頼もあるが、恋愛だけでなくいろいろな人と接した長年の積み重ねでそう思えるようになったのではとも思う。

私の中にある隙間を埋めたいと思うことがある。かつて感じた狂おしい日々をもう一度感じたいのか、輝いていた時間を取り戻したいからなのかはわからない。けれどこの先、目の前に私の心の隙間に入り込んでくる人と出会うことがあったら自制できるだろうか。絶対という言葉はない。理性と感情の間で葛藤しその結果決断するのだろうと思う。その決断が正しいものなのかどうかはわからないが、そんな思いを封印することはできないかもしれない。

とはいえ現在そういう状況にあるわけではない。だから本や映画で疑似体験をする。世間一般的には否定的に感じることでも、その物語の中では登場人物に感情移入をし心が揺れ動くことに対して応援し、あたかも自分のことのように心を熱くする。

それは今の生活が満足しているとか満足していないとか、そういうことではない。ただ刺激という媚薬を求めている。しかも刺激だけがほしいのでなく、安定という器の上に刺激がほしいという自分勝手な願望である。ただそれは誰もが持ってるものではないだろうか。

人を愛するということはプリンを食べることと一緒なのかもしれない。

どれだけプリンが好きでも毎日毎食では飽きてしまう。またカロリーが高いことは知っているが気にしていたら美味しく食べられないので見て見ぬ振りをする。そして時々はコンビニプリンでなく有名店のプリンを食べたいと思うこともある。それはご褒美として時々食べるから美味しいものであり毎日食べ続けるには買いに行く手間やお金が持たない。だから普段は食べたいときにさっと手に入るコンビニプリンがいい。

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ありきたりな話かもしれないけれど、きっとオトナの恋というのはそんなものなのだと思う。

そうやっぱりいつものプリンがいい。