「知性的」であることは、生きやすのか、どうなのか
鷲田清一さんの著書『濃霧の中の方向感覚』。
世の中を見る新しい視点、視座をくれる、芯のある本です。まだ序章しか読めていませんが、学びが多いのでシェアをしたいと思ってこのコラムを書いています。
鷲田さんが冒頭で語っているのは、「知性的」とは何かということ。とてもわかりやすいので、引用をさせてください。
知性は、それを身につければ世界がよりクリスタルクリアに見えてくるというものではありません。むしろ世界を理解するときの補助線、あるいは参照軸が増殖し、世界の複雑性はますますつのっていきます。世界の理解はますます煩雑になってくるのです。私たちが生きるこの場、この世界が壊れないためには、煩雑さに耐えることが何より必要です。
人は、何かをわかりたい、整理したい、クリアにしたいと思う生き物なのだと思います。そうしなければ、悶々として苦しいから。
けれど、今の世の中は、クリアになるどころか毎日毎日いろいろなことが起きて、糸は複雑に絡み、どこを引っ張っても結局はうまく解けないのではないかと思わされるほどです。
私は本を読むのが好きで、ファンタジックな小説からでも、鷲田さんの著書のような本からでも、なんとなく世界を見るレンズを毎回授かったような気持ちになります。
そのレンズを覗いても、もちろんですが、世界はいつもとちょっと違く見えるだけで、何も解決されていない。
私はいろいろなレンズを重ねて、「なんて世の中は歪んでいるだ!」と嘆くことすらあります。
レンズを重ねれば重ねるほど、生きずらさすら感じます。
でも、だからと言って、そのレンズとメガネを外してしまうことは、できません。
弱った視力で諦めて、汚いところも綺麗なところも見えないまま、ぼんやりと過ごしたくはないのです。
だから、私はこの”混沌さ””煩雑さ”に耐えていたい。我慢ではなく、その中でも希望を見出して、光を見つめながら、レンズを取っ替え引っ替えしながら世界を見ていたい。
そう思っています。
鷲田さんの文章に背中を押された気持ちで、もう少し、この本を読み進めると共に、世の中を見るレンズを集めていこうと思います。
言葉で、日々に小さな実りを。そんな気持ちで文章を綴っています。