ただ食べる、でいいじゃない。~映画「食べる女」を観て



アマゾンプライムの契約をしてから、たまに家で映画を観る機会がある。
芝居をやっているくせに別に映画好きではない私にしては珍しい行為だなとぼんやり思うけど、家でだらだら映像を観られるって結構幸せなんだなと思った。
んで、せっかくだし感想とか思うこととか、書きたいなと思ったら書いちゃえばいいんだなと思って書いてみることに。

たぶんネタバレはないけど、するかもしれないのでそういうの嫌いな人はUターンして自衛してください。よろ。



「食べる女」は元々原作を読んでるんだけど、私の中で何となく捨てられない・売れない・読み返しちゃう本のひとつ。
読んでめちゃくちゃ感動したとか心の糧になったとかはあんまりなくて、むしろ「女には食うと男しかないみたいな本だな」って思うこともあって。
こうやって書くとこの本のことすごく嫌いみたいだなって見えるかもしれないけどそういう訳じゃないのよね。
たぶん結構好きなんだと思う。

私は短編がたくさん詰まっている本が好きなんだけど、この小説はまさしくそういう本で、食べるってことに関してしか繋がりがない短編集なんだけど、映画にするにはなかなか難しいものがあるじゃん、そういうのって。だから誰か一人をクローズアップしたりして映画にしがちなんだけど、この映画にはそういうのがなくて、そこがとても良かった。
一応一人ピックアップしたような形ではあるんだけど、別にその人の人生に大きな変化があるとかそういうのはなしに、出てくる人みんなが比較的緩めのご縁でむすばっているような作品だった。
これは原作の筒井ともみさんが脚本を担当しているが故の自然さなのかもしれない。原作にあったキャラクターそれぞれの強烈な「一人の人」としての個性をきちんと残しつつ、互いに哀しいことがあれば手を取り合って泣くしたまには喧嘩もしそう…くらいのちょうどいい塩梅のご縁の人々を描いているのが好ましかった。

そしてもう一つ、この映画が「短編集」から「連作短編」に切り替わったがゆえに強調されたのが≪男と女≫という区別だったように思う。
なかなか愛しいキャラの男が出てくる原作に比べ、映画に出てくる男はみんなひとまとめに「男」って感じ。女たちはゆるゆるとした絆に囲まれているんだけど、男はとりあえずまとめたよって感じなの。
その雑ともいえる搔き集め方の最後に、声を出して笑ってしまった。
でも、それでよかったんだよね。だってこれは「女」の話だから。

唯一マイナス方面に気になったのは、卵かけご飯のシーン。
原作では一番最初に出てくる、「自分は選んでそこにいる」といわんばかりに掻き込む卵かけご飯…っていう結構大事なシーンだと思うんだけど、映画では敢えて締めに描かれていた。
それ自体は別にいい。若干原作との解釈違いになってしまったけど、映画の脚本の中でこの卵かけご飯が意味するものとしては正解の描き方をしているから問題ないと思う。
…んだけど、映像の出し方や演出があまりにもそこだけチープになっていて…この卵かけご飯のシーンだけは「なんか違うじゃん!?」っていう気持ちになってしまった。
だって全員写したじゃん…前田敦子ちゃんがやってるAPだけ舞台セット裏で食べてて許せなかったけど(だってそこで卵かけご飯食うか?)…なのに最後にまるで月みたいにぷかぷかと…そして他の女の人まで…
それは違くないか?彼女たちは今まで自分で立ったり選んだり宣言したりって美しく見せてくれていて、その彼女たちが、凝った料理を食べていた彼女たちが敢えて「一人で卵かけご飯を食べている」というのが大事なんじゃないのか。そこに特殊な演出も他の人も何もいらなかったんじゃないか。

こないだから映画を、それを邦画をちょくちょく観ていて思うんだけど、最近の邦画って「足し算の演出」が多いのでは?って感じている。
それほど、分かりやすくないと受け入れてもらえないって思われてんのかなぁ…なんて感じたシーンでした。


ばばばっと書いたけど、私は割と好きな映画だったので気になる人はアマプラとかで観てみてね。

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