火と導火線 ある少年の告白(2018)

体調が悪い時、もしくはそこまで悪い気分じゃないけど、あれ、なんか体の調子が変だなって思うとき、僕たちは体温を測る。
ピピッと音が鳴って見れば、36.6℃なんていう、とんでもなく見慣れた数字が表示されたりして拍子抜けする。
僕たちはそれを見て、なぁんだ、さっきのは気のせいかという調子で、今度は自分の感覚を疑い出す。

ある少年の告白 (原題:Boy Erased) を見ながらそんなことを思った。正確にはアマプラにあったこの映画を見ながら少々体調の異変を感じて体温を測り始め、測り終えた結果が、このコロナ全盛のイギリスでも「自分はそんなものに罹るはずはない」とする根拠のない自信を持っていた自分に安堵をくれた瞬間にそんなことを思ったのだった。

外から与えられた科学的、客観的、数値的な統計やデータ、ときにはそれに伴う思想が、自分を規定しているように感じることがある。それは例えば、年齢だったり年収だったり、君ってミスチルが好きだったよねっていう誰かの発言だったり(実際好きだが)。
自分は一体何者で、どういう人なんだっていう根拠を探せば探すほど、それが他人からの目に依存して、外部からみたデータをかき集める作業に収束することに気づく。そしてそれが、あぁ自分はこういう人間なんだっていうある種の限界すら感じさせたりするし、時に自分の感覚にすら矯正のメスを入れてくる。今回の体温計の数字はまさにそんなケースで、自分がおかしいと思っていることについてはっきりと残酷に、「違うよ、きみはどこもおかしくないよ。さぁ、元気だしていこう」と言っているようで気持ちが悪かった。自分というものは、間違いなくそこに、感じるままのものとして存在する。それは多分、誰がなんと言おうとそのままの形でそこにある。

映画の話に戻すことにする。
この映画は、同性への憧憬と恋心に気づいた少年と、その告白を聞いた田舎暮らしの保守的な牧師である両親の葛藤を描いた話である。映画の中で、息子の思考的な性癖を受け入れられなかった両親は、息子を同性愛者をストレートに矯正する施設に入れるのだが、そこでの矯正方法は、とても暴力的で上から押さえつけるような、前時代的なものばかりであった。初めは自らを矯正させようと決意していた少年も、徐々にその環境の異様さに気づいていき、自らある行動を取る、という話である。

見ながら、体温計の数字に感覚を決定されちゃってるなぁと思うくらいの気持ち悪さを感じていた。自分の中にある感情とか感覚と、外が思う自分像とか外が自分に期待する自分像がズレているとき、間違いなく正しいのは自分の感じるままの自分だと思う。そういう意味で、そのままの形でそこにあるのが自分だと、思う。それを期待に沿って矯正させようとか、あいつはこういうやつだって決めつけるのは間違いも甚だしいと思う。

たまに考えるのが、人も火も、さして変わらないんじゃないかっていうこと。火とはそう、ろうそくに灯ったり、キャンプファイヤーなどで灯るあの火である。

火は、化学反応でしかないが、それは目に見える形で、そして熱を持って存在する。もちろん人の脳がそれを確認できるレベルでの話だが、間違いなく存在する。風が吹けばゆらぎ、水をかければ消える。それは抽象レベルをあげれば、反応(風、水)に対して反応(火)が反応(揺らぐ、消える)するというだけの話だ。

人も、誰かの言葉(反応)に対して、考えたり、揺らいだりする(反応する)。人間だって、火や水と同じく、ただの化学反応の集まりなんだって思う。そして火は、導火線で導くことはできても、導火線をたどる途中で近くの雑草に燃え移るかもしれない。それを止めようとして蓋をして閉じ込めるとすぐに反応をやめ、消えてしまう。

火が存在していると言える限り、反応としての自分も必ず存在するし、その反応を誰かが矯正することなんてできやしないはずだ。そんなことを考えさせてくれる映画だった。

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