見出し画像

nyunさんの「剰余価値(Mehrwert)周辺の話、その2」を読んで

nyunさんによれば「利潤」は「剰余価値」の現れ方の一つ。
ディルクの「剰余労働」概念をマルクスは『剰余価値学説史』で批評し、発展させたものが「剰余価値」だという。

ポスト構造主義のエクリチュールについての議論と重なる。
資本に対応するのがテクスト、労働に対応するのはエクリチュール?
このあたりは詳しく掘り下げていきたい。

追記、真の「富」について

以前より考えていたことだがここにまとめておく。
マルクスにとって「資本制生産様式が支配的な社会」における「社会の富」は、否定神学的に斥けられる対象だった。
そしてマルクスは、「人間の自由時間」を真の「富」とする。

真の「富」について考えたマルクス偉大だ。ただ、人間にとって「富」とは余暇だけのことなのだろうか。
資本制生産様式がもたらす構造とは関係なく、労働にさえある種の価値を見出す人間がいるのではないか。
稲荷神信仰などに見られる、労働に神との合一を見る発想はその一例だ。

「富」の正体をめぐる議論は結局終わりがないのだろう。それでも今現在はとりあえず、自分からはこのように回答することができる。

よろしければサポートお願い致します! 頂いたサポートは新しいコンテンツ作りに使わせていただきます