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人の連続性と私の不器用

丸ごと良い人もいなければ丸ごと悪い人もいないし、いつも楽しい人もいなければいつも泣いている人もいない。ある人の好きなところもあれば嫌いなところもあって、その人が愛しくて仕方ない日もあれば憎くてどうしようもない日もある。

反対に思えるものも全ては繋がっていてそこに境目はない。人なんてきっと特にそう。1人の人をとっても、辛うじて外側の入れ物があるから綺麗に形を保って収まっているものの、中を覗けば色々な要素が連続して繋がって蠢いてその人を作っている。それが人の面白さであり、感情の材料で、愛情の源だって心から信じている。信じているのに、私はいつだって悲しい。

全部が繋がっているはずということは、二項対立と呼ばれるものはきっと存在しない。善と悪。正解と不正解。そんなものはない、そのはずなのに、どうして私たちは文字通り白黒つけたがるのか。それはきっとわかりやすいから。そして私たちが主として生きるこの社会には分かりやすさが求められる。そして正解は一つではない。時代が進めば進むほど、色々な人が正解と認める選択肢が多くなっているような気がする。

私の正解は誰かにとっての不正解である。そしてその誰かが私だったりする。

この社会の中で私が生きる上で、私は1人で強く美しく生きていきたいと思っている。自分の暮らしを自分で営み、自分の心を自分で支え、時に人と心を交えて感動したりする。そんな人でありたいと心から思う。それがこの社会において私の信じる正しい道だと信じている。

ただ同時に、私が少し欠けた状態だとしても他人と体を互いに預けながら支えながら一緒に生きていきたいとも思う。人は1人では完璧にはなれない。2人以上でお互いの足らなさをお互いの温かさで埋めあって、愛し合って、会話して生きていきたい。その心地よさこそ私が人生をかけて求めるものだと思う。

一人で強く美しい私と、他人と肩を寄せ合って微笑む私。この社会を生きていく中ではどちらも私が夢として描くもので、どちらも私の正解。

しかし社会では正解の向こう側には必ず不正解がある。1人で生きることが正解の私の反対側では、2人で生きたい私がいつも心配そうな目をしている。2人で生きることが正解な私の反対側では、1人で生きたい私がいつも残念に思っている。

1人の私という人間の中に、いつも正解と不正解が回りながら向かい合って立っている。どちらかの正解を目指し意を決して私が歩みを進めれば、その瞬間必ず不正解のブザーが鳴り響き、歩みを止めない限り鳴り止まない。では逆を選びもう片方の正解を信じて歩けば、またその瞬間同じ大きさで不正解のブザーが鳴り響き、これも止まらない。だからといって足を止めていれば今度は1番大きな音で警報が鳴り響き、足場さえ崩れ落ち、歩くことすらできなくなる。

このブザーの音には慣れたと勘違いできても、心はいつも悲しい。頑張っているはずなのに、いつもなぜかずっと悲しい。どちらかを生かせばどちらかを殺している。だから何をしたって悲しい。「頑張ってるね」と言われても「悲しいよ」と思う。

器用な人や自分を信じている人はもしかしたら、どちらも正しくできるのかもしれない。自分の中の連続性をこの社会の流れと上手に溶け込ませて、綺麗な渦を作って幸せに暮らしていけるのかもしれない。 

それがどうしても私にはできない。正解を一つずつ求めて悲しくなることしかできない。

人は世界のように連続性を抱えている生き物である。そのことを学び、救われ、信じている。他者と対峙した時その連続性にこそ、個性と呼ばれるものが映し出されると肌で感じ感動もした。自分も人として連続性を抱えていることに誇りを感じたはずだった。

なのに私はいつも悲しい。
私は私の連続性を愛せていない。

そしてきっとこれからもずっと悲しい。この社会で努力する限り。

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