5・5金曜-手記⑨-「目先を変える」
私の住む地域で視界に入って来るものは、ビルやマンションだ。空があまり見えなくて閉塞感がある。数年前に引っ越してきた当初は その圧迫感に「これからやっていけるのかな?」と、不安になったものだ。
今はまあ 相変わらず育てているベランダのアボカド達と、住んでいる間に見つけた 近所の控えめな緑地に 一時の安息を見出すことができた。
そう、“慣れる”とは きっとそういうことなのだろう。
人間は不思議なもので、極限的に過酷な状況下でも 意外に何とかなってしまったりする。
良くも悪くも……
例えば南極、宇宙、洞窟、深海、上空などなど
それとか随分暗い話になってしまうが、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」を知っているだろうか?
第二次世界大戦中、ナチスによりユダヤ人としてアウシュヴィッツ強制収容所に収容された人々の生活や心理状況などを、できる限り客観的に、そして公平に描写することを目的とした。
作者本人が強制収容所で迫害を受けた体験を綴った壮絶な実話であり文学作品です。
実に2年7ヶ月の地獄を生き抜いたヴィクトール・フランクル。
……私は、作者「ヴィクトールに生きていてよかったですね」なんて言えない。
私がヴィクトールなら死んだ方が良かったと思うからだ。
ヴィクトールは拷問と強制労働をさせられていた2年7ヶ月。妻や両親の名前を繰り返し呼び、その幻を見て、それに励まされ、戦争が終わり、命からがら生き延びたが、その結果告げらたのが、妻や両親が四肢をバラバラにされ惨殺されていたという事実。
……どうだろう? それらがこの「夜と霧」には克明に書かれているのだ。
自然環境や宇宙の過酷さは、ある意味平等で、向き合って準備もすれば、なんとかもなる。しかし、戦争や虐殺や迫害はそうはいかない。
よく人間が一番残酷だと言われるが、その通りだと思う。
私は極端な思想やそれに類する活動は一切していないが、本から学ぶことは言葉では言い尽くせないほど大切なことだと思っている。
だからこれからも私は読む。時に黙読し、時に朗読し、職業柄 時にさらに それを追体験する。
人類が積み重ねきた 正も負も、光も闇も、清も濁も、浅さも深さも、それに目先が向かなければ 無いのと一緒だ。
私には高々100年の人生で、その脈々と積み重ねてきた人の叡智を 理解できると思える傲慢さはないが、せめて触れていたいとは思う。
なぜだろう?
……それは、一種の恐怖があるからだと今 私は感じた。
やっぱりどうしても忘れしまう時がある。
夢中になっていたり、忙しくて正常な判断力を失ったり、仕事場で特定のコミュニティの集団理念に従わなければない時、そして「空気」という名の世の中の集団無意識……それからくる同調圧力などなど。
やっぱり我々はどこまでいっても孤独には なかなかなり切れないものだ。
だから脳裏のどこかでは、いつも自分自身の“総合的なバランス”を測れていなければならないと思うのだ。
息を吸って、吐いて、心拍が落ち着いたら、ゆっくり自分に問うてみる……
「本当にそれでいいのか?」
それ以外の良法を私は知らない。
おわり!
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