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国語の授業で

先生は早足で教室に入ってくると、今日も引き戸を後ろ手に閉めて
「おはようございます」
と言ってさっと教卓の前に立った。
「気をつけ、礼」
クラス委員の福田くんが唱えると、皆ボソボソと挨拶をする。

水曜の4限はH先生の国語の授業だった。H先生はひっつめ髪に黒縁眼鏡、いつも黒い服を着ていたが、冗談が通じる点でその見た目の印象を裏切っていた。ムードメーカーの翔が
「先生〜彼氏はいますか〜?」
とバカっぽく聞いたら
「子供がいます」
と返ってきたときはみんな笑ったが、先生は左手の薬指に指輪をしていなかった。
わたしはH先生に興味を持った。

ある日のことだった。H先生が教室に入りいつも通り後ろ手に戸を引こうとした時、一緒にするりと滑り込むようにスーツ姿の男の人が入ってきた。無言で黒板横の隅の方に立ったので最初は研修の先生かと思ったのだが、おかしなことにH先生はその人についてなにも触れないまま授業を始めた。

授業の間50分、男は隅っこに立ったまま一言もしゃべらず動きもしなかった。表情も変えずじっと、ただH先生の方を向いて立っていた。授業が終わっても友人たちはその不思議を誰も口にしなかった。わたしにしか見えていなかったのだ。以来男は毎回、H先生と一緒に教室に入ってくるようになった。

今日も彼は教室の隅に立ってH先生の方を向いている。なんにも悪さをしないので、気にはなるものの慣れてきた。
「前回の続きからいきましょう、54ページ開いて〜」
いつも通り指示がなされ、パラパラと教科書を開く音が教室に響く。この小さな机の上でひたすら書いて、たまに指名されて固まって、答えられなければまずい思いをする、その繰り返し。授業はやはり退屈だ。
しかしあの男は何なのだろうか。先生との関係は。国語の時間、わたしの視線はノートと黒板と男の間を行ったり来たりするのだった。

それに気がついたのは授業も半分を過ぎた頃だった。ノートをとって顔を上げると、いつもはH先生の方を向いているはずの白い顔が、明らかにこちらを向いて視界の隅に映っていた。絶対にわたしを見ていると感じた。気付かぬふりをしたが鳥肌が立ち、その瞬間周りの音が飛んでいった。耳鳴りがする。それはどんどん強くなる。男はこちらに向かってゆっくりと歩き始めた。固まって動けず、前の席の吉田の後ろ襟のところを見たままでいた。

わたしだけじゃなかった。
彼もわたしに気付いていたんだ。
耳鳴りに耐えられず、頭を押さえて下を向いた。

「大丈夫?佐藤さん」

H先生の声が聞こえて同時に耳鳴りが消えていた。顔を上げると、驚いた顔をしてわたしを見ているH先生がいた。振り向いた吉田がわたしを見ていた。不思議そうな顔をした美咲とさくらの顔も見えた。
見回してもスーツ姿の男は見えなかったが、左後ろの席の福田くんだけ、青ざめた顔に見開いた目でわたしを見ていた。

福田くんにも、見えていたらしい。



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