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見られるストレス

なんとなく、エスカレーターの方を見ていた。
何を見るでもなく、なんとなくだった。
暇だったのもある。
合わない焦点にぼんやりブレたエスカレーター。
わたしの目とそのエスカレーターの間に
一人の人間が挟まっていたなんて全く気が付かなかったのだ。

「あんた 今わたしのこと 見てたでしょ 」

彼女がくるりと振り返って瞬間、叱られた。
わたしはその時やっと、そこに社員のYさんがいたことに気づいたのだった。

「あんた 今わたしのこと 見てたでしょ わたし 人から見られるの ものすんっっっごい 大嫌いなの!」

一つに結んだ髪がすっかり白いYさんの年齢は知らなかった。若いのか歳をとっているのかよくわからない顔をしていた。美人なのかそうじゃないのか、よく分からない人だった。太くも細くもない体つきをしていて、ただ素肌だけは透けるように真っ白なのが羨ましかった。
わたしはそんなつもりはなかったと弁解した。

「嘘!」
「わたし 誰かから見られてると 後ろからでも すぐわかるんだから!」

叫びに近い、怒気のこもった声。周りにお客さんもいるし、店は営業中である。
わがままな客の方がまだ良いくらいだ。いくら腹が立ったからといって、他に人ががいる前でそんなに怒るか?パワハラだろ。

お願いすれば手伝ってくれたし、聞けば答えてくれた。しかしYさんはその日の気分で態度が急変する人だった。嫌味はいくらも言われたことがある。半年前に妊娠して寿退社した同僚のMは、大きなお腹でストックを片付けていたら
「どーせセックスばーっかなんだ。若い子は」
と言われたと言って泣いてたっけ。

「赤ちゃんって ものすんごい ストレスが 溜まってるんだって それは みんなに 見られるでしょ? こーうやって こーうやって 顔を覗かれるでしょ? それ すんごい ストレスなのよ!」

こっちこそストレスだ。
実際経験豊富でなんでも知っていて頼りになった。しかし反面、みんなかなり気を遣っていたしご機嫌を伺っていた。
ついこの間までは。
Yさんが急死して二週間経つ。
連休中に自宅で倒れ、独り身だったので発見が遅れたのだった。大家が鍵を開けると飼い猫が3匹、餌を求めて寄ってきたそうだ。

「人のことじっと見るって それ ものすんごい 失礼なことだからね!」

怖い顔をしたYさんは、わたしの方をじっと睨んだまま、通路を歩いて行って見えなくなった。

見たくて見ているわけじゃないよ。
ていうか、ほとんどの人にはもう見えていないんだ。



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