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隣家の音

春だからか。
庭の常緑は昨日とも一昨日とも、何も変わりないのになぜか生き生きと見えてくるのだ。蟻が歩いているのを、二匹、三匹と見つける。植木鉢を動かしたらナメクジがいる。冬の間は死んだように固まっていた落葉樹の枝に小さな新芽が見えたら
「よし、今年はここに花を植えよう」
なんて急に張り切ってしまうのだった。
新たに花壇を作ることにしたのは隣家との境目。買ってきたばかりの鍬を手に土を起こせば大きな石がゴロゴロと出てくるのはもちろんのこと、失礼なことに菓子袋のゴミのようなものや、プラスチック製のパイプが砕けたものまで出てきてこれには腹が立った。

スコップを片手に座り込み小石を拾っていたら
“ドン”
と隣家から聞こえた気がした。
どんな音かというと、例えば人の家を訪ねインターホンを押して待っている間、中の住人の足音がなんとなく外に伝わってくるあの感じ。床が鳴る音と言えばいいだろうか。

隣家の庭は雑草が防草シートを突き破り、もとは日除け目的で植えたのであろう巨大な朝顔は、蔓が好き放題伸びて冬の間はお化けのようになっていた。去年の春にアシナガバチが排気口を出入りするのを見て、きっと室内に巨大な蜂の巣があると想像した。境界フェンスを超えてうちの敷地に飛び出してきたつるバラのシュートは、申し訳ないけど勝手に切ってしまったし。

以前一度だけこんなことがあった。
それも春のことだった。
家の中からはっきりと、人を叱りつけるような年配の男性の声が聞こえてきたのだ。説教の相手がきっと家族だろうと推察したのは、その話が
「ちゃんと仕事をしろ、働け、」
という内容だったからだ。
そもそも空き家だと思っていたから声を聞いた時は心底驚いた。引越しの挨拶に行ってもいつも留守、夜間に明かりがついているのを目にしたこともなかった。
息子と喧嘩でもしているのだろうか?
ものすごい声量と爆発したようにまくし立てる様子に恐怖を感じたが、実の所好奇心もあった。庭でうろうろとしながらその延々と続く大声を聞いていて、途中でやっと気がついた。
その説教には相手がいなかったのだ。

人の声を聞いたのはあの一度きり。その後凄まじいスピードで自然に侵されてゆく庭の様子から、とうとう本当に空き家になったのだろうと思っていたのだが…

“ドン”
とまた音がした。

近所の駐車場から聞こえてくる音かもしれない。
聞き間違いなんていくらでもある。
でもどうだろう。
住んでいないと思っていた家に
実はずっと住んでいたのだとしたら…


コン。と音がして
あっ、と思って顔を上げた。
小石を拾って投げていたら隣の敷地に入ってしまったのだ。
「あ、ごめんなさい。」

誰にというわけではなく
思わずつぶやき立ち上がると
隣家の掃き出し窓の長いカーテンの隙間に
ボールのように転がっている老人の顔が見えた。
石を見ていた老人は目だけ動かし、わたしをジロリとみた。



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