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ある男|16−3|平野啓一郎

不幸にして──そう、それは文字通り不幸だった──、小林謙吉のような人間は、現に存在している。彼に罪を犯させるに至った遺伝要因と環境要因、更には数多の偶然と必然とに、人間の歴史上、前代未聞の例外的な条件は何一つなく、むしろ、何もかもが溜息が出るほど凡庸だった。

だからこそ、彼には責任があるのだとは、城戸も当然に考える。彼は、個人の自由意思を一切認めないといった極端な立場にまで、どうしても立つことが出来ない。しかし、小林謙吉の生育環境が悲惨であることは事実であり、彼の人生の破綻が、大いにその出自に由来していることは明白だった。

国家は、この一人の国民の人生の不幸に対して、不作為だった。にも拘らず、国家が、その法秩序からの逸脱を理由に、彼を死刑によって排除し、宛らに、現実があるべき姿をしているかのように取り澄ます態度を、城戸は間違っていると思っていた。立法と行政の失敗を、司法が、逸脱者の存在自体をなかったことにすることで帳消しにする、というのは、偽善以外の何ものでもなかった。もしそれが罷り通るなら、国家が堕落すればするほど、荒廃した国民は、ますます死刑によって排除されねばならないという悪循環に陥ってしまう。

けれども、城戸はこうした考えを、積極的に人に語ったことはなかった。それは取り分け、彼の妻が、絶対に理解しない論理で、一度、テレビのニュースを見ながら、もし颯太が誰かに殺されたら、という話をした時、彼女は断固として、犯人は死刑にすべきだと言い、夫に同意を迫った。

城戸はその時、一人を殺しても、今の日本では死刑にならないとまずは言った。しかし、妻はすぐに、「じゃあ、わたしと颯太の二人が殺されたら?」と詰め寄った。

城戸は腹を括って言った。

「何か、よほどのことがあれば、人を殺してもいいという考え自体を否定することが、殺人という悪をなくすための最低条件だと思う。簡単ではないけど、目指すべきはそっちだろう。犯人のことは決して赦さないだろうけど、国家は事件の社会的要因の咎を負うべきで、無実のフリをして、応報感情に阿るのではなくて、被害者支援を充実させることで責任を果たすべきだよ。いずれにせよ、国家が、殺人という悪に対して、同レヴェルまで倫理的に堕落してはいけない、というのが、俺の考えだよ。」

香織の目は、怒りと失望に赤く染まって震えた。それはほとんど、人間の血が通っていないのではないかと疑うような眼差しだったが、この話を続けることが、夫婦関係に決して後戻りの出来ない、破壊的な事態を招来することを察して、その時は、そのまま話が打ち切られた。起きてもいない悲劇のために、喧嘩する必要もなかった。颯太が丁度、一歳になった頃のことだった。

そして、城戸が今、小林謙吉に対して、直接の憎悪を抱き得ないもう一つの理由は、彼が本人の人生だけでなく、子供である原誠の存在を知り、強い共感を寄せているからだった。

城戸は、同じ「子ども会」で、一緒にソフトボールの練習をし、ベースやバットといった用具を預かってもらっていたために、何度もその家に遊びに行ったことのある上級生が、ある日突然、両親共々、惨殺されたと知った朝の原誠の心情を想像した。パトカーや救急車のサイレンが轟く騒然とした町内や、父母が殺到し、泣き声が響き渡る小学校の講堂を思い浮かべた。

そのうちに、他の子供たちとは違って、彼ばかりが、登下校時に、マスコミに事件について訊かれるようになる。死んだ友達のことだけでなく、必ず「お父さん」の様子を尋ねられる。最初から、どこか呆然としていた母親の表情をふしぎそうに見ていた姿を想像する。警察が訪れ、カメラマンが怒号を発しつつ押し合いへし合いする中で、父親が逮捕され、連行された朝の情景を思い描いてみる。……

かわいそうに、と城戸は心底感じた。成人後の原誠の背中を思った。かける言葉が見つからなかった。

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