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ある男|16−2|平野啓一郎

城戸は、自分が向き合っているパソコンのワープロソフト上で、これまで遍在し、ただ失われるに任せていた原誠という人物が、言葉によって出現し、再び確かに存在してゆくのを実感した。弁護士としての彼の仕事は、基本的にはそうして、起きたこと、それに関係した人を言葉にすることだったが、裁判で起案をするのとは違って、目的に収斂させることなく、無駄と思えるような細部に至るまで、極力書き留めようとした。それは、火葬場で、愛する人間の遺骨を、少しでも多く拾い集めようとする遺族の心情に近かった。

原誠本人が、肉体を以てこの世界に存在していた時には、それらの過去は消えるに任せておきたかったであろうし、もっと積極的に消したいと思っていたのかもしれない。なぜなら、生きようとしている実体としての彼にとって、過去は重荷であり、足枷だったから。けれども、その実体が亡くなった今、彼を愛する人が、すべてを愛を以て理解してやれるなら、彼の全体は恢復されるべきではあるまいか。

そうして出来する一個の人間が、「原誠」と呼ばれるべきかどうかはわからなかった。しかし、城戸は明らかに、これまで情報の断片に惑わされながら、彼自身が酷く不安だったのに対して、かたちを成しつつある原誠の存在と呼応するように、自分という人間もまた、まとまりをつけ、一つに練り上げられてゆくような感覚になった。彼がその人生に見たのは、一個の深手を負った物語だった。それは、城戸自身の存在の不安を、孤独に、閉じ込めないまま慰めた。

城戸は、この〝探偵ごっこ〟が、ほどなく終わりを迎えるであろうことに、言い知れぬ寂しさを感じていた。そろそろ潮時であることは、彼自身が痛感していたが、このあとに訪れる空虚を想像すると、索漠とした心境になった。

寂しさ。──そう、情けないことに、彼はこのところ、自分の胸中に蟠っている感情を、臆することなくそう表現していた。

それは、若い頃には想像だに出来なかった、中年の底が抜けたような寂しさで、少し気を許すと、無闇な冷たい感傷が、押し止める術もなく、彼に浸潤して来るのだった。

そういう時、彼は、あの北千住の公園に突っ伏して号泣する原誠の姿をよく想像した。彼には、その光景は、時間と場所から解き放たれて、ほとんど神話の一場面のように感じられた。なるほど、今すぐ直ちに、この場所で、足許に身を投げ出して泣くというのは、何か、超人間的な行為に違いなかった。にも拘らず、城戸は、自分の頬が小石混じりの砂粒に塗れて、地面に擦りつけられるその痛みを、まるで経験したかのように知っているのだった。

小林謙吉は、記事によると、一九五一年に四日市市で生まれている。

幼少期は、食事さえ満足に与えられないほどの貧困と、父親からの凄まじい暴力に苦しんだという。十代の頃から素行不良となり、高校も中退して、しばらくブラブラしていたが、やがて地元の工場で働き始め、両親とは絶縁して、一人暮らしを始めた。

二十一歳の時には、二歳年下の女性と結婚し、三年後に一人息子の誠が生まれた。

小林謙吉は、妻にも子供にも日常的に暴力を振るっていたが、彼自身の幼少期と同様、それが大きな問題となる時代ではなかった。傍目には、この後、五年間ほどは、極一般的な家庭に映っていたようである。

ギャンブルにのめり込むようになったのは、三十代を前にして再会した、中学時代の〝先輩〟の影響が大きかったとされる。そこから、たちまち借金漬けとなり、事件を起こした頃には、連日、取り立てに追われていたらしい。

事件は、一九八五年の夏に起きている。小林謙吉は、誠が入っていた「子ども会」を通じて親しくなった工務店の社長宅に金の無心に訪れるが、断られたことに激昂する。一旦帰宅後、深夜に強盗に押し入り、夫婦と小学六年生の男児一人を惨殺。十三万六千円を奪った後、犯行を隠すために放火し、帰宅したが、一週間後に逮捕されている。

事件はあまりに浅はかで、残酷で、とりわけ、子供まで巻き添えにしている点で、「鬼畜の所業」と報じられた。三人が殺されていることから、死刑は当然視され、小林謙吉自身も起訴事実を争わず、また一審の判決後、控訴はしなかった。

城戸は、自分の人生が、どこかで小林謙吉のような人間の人生と交わり、こんな理不尽な理由で、自分だけでなく、妻も子も殺害されることを考えて、心底、嫌な気分になった。凶器は「刃渡り二十センチの文化包丁」で、それが颯太のあのしわ一本なく輝いている薄く柔弱な肌を刺し貫く様を想像すると、とても正気ではいられなかった。

しかし、その恐怖と不合理への憤りは、小林謙吉への憎悪へは必ずしも直結しなかった。

それは無論、城戸が真の当事者ではないからである。同時に、恐らく職業的な経験もあって、彼の世界観が、これほどの悲惨な事件でさえ、あり得ることと認識していて、それに遭遇することを、一種、運命的な、事故的な何かのように見せているからだった。

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