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ある男|17−3|平野啓一郎

CMに入ったタイミングでテレビを消すと、先ほど来、考えてきたことを反芻して、自分は間違っていると感じた。

在日に色んな人間がいるというのは、その通りだった。けれども、今美涼がカウンター・デモに加わっているのは、在日を理想化しているからでも何でもなく、その存在自体が危機に瀕しているからだった。日本という国自体が、おかしなことになっていて、彼女に「あんな連中をのさばらせてる日本人こそが、自国の問題として行くべき」と言ったのは、彼自身だった。自分こそ、一番に駆けつけるべき日本人であるにも拘らず。──

城戸は、考えているうちに、また具合が悪くなってきて、横になって顔を伏せ、とにかく、考えることを止めようと思った。

そして、気を紛らそうとするように、美涼と美術館を訪れた日のことを思い出して、また彼女に会いたいと感じた。

ほど経て、香織がリヴィングに戻ってくると、「なんでああいうの、見せるの?」と夫を非難した。

昨年末に、香織が関西出張に行った後、クリスマス、正月とイヴェントが続いて、颯太や実家の両親の手前、表面的にでも明るく言葉を交わしているうちに、このところ、夫婦関係が多少上向いていたので、城戸は妻の険しい目つきに、このあとの会話を案じた。そして、努めて呑気な調子で、「見てたら起きてきたんだよ。」と言った。

「消したらいいじゃない、すぐに。」

城戸は、頷いたものの、ウンザリした顔になっているのが自分でもわかった。香織は、立ったまま夫を見ていたが、やがて、これは言っておきたいという風に口を開いた。

「あなたのルーツのことはわたしだって理解してるし、その上で結婚してることも知ってるでしょう? こんなこと言いたくないけど、反対がなかったわけじゃなかったし、だけど、わたしは説得したの。──でも、現実として、さっきみたいな人たちもいるんだから、颯太のことは守ってあげないといけないでしょう? あなたのルーツのことは、もっと大きくなってから話すってことでいいって言ってたじゃない?」

城戸は、座り直すと、ソファの背もたれ越しに立ったままの妻を見つめた。話し合わねばという思いと、幾分かは、もうなるようになれという気持ちとから、口にすべき言葉を探したが、どこから手をつけて良いのかわからなかった。

妙なことに、城戸はまるで、他人を見ているかのように、香織をつくづくきれいだなと感じた。

事務所では、「城戸さんの奥さんは美人」ということになっていて、こども園の保護者の間でも、どうやらそういう評判らしかった。颯太はそれを自慢にしていたし、城戸自身がそう思って結婚したことは間違いなかった。そして、そんなことが今になって急に意識されるのは、別れ話の前触れとしか思えず、彼はいよいよ言葉に窮した。

黙っている夫を見ながら、さすがに香織の目も不安げに張り詰めた。これまで互いに踏み越えずに来た一線を、夫が越えようとしているのではと感じたらしかった。

城戸は、妻の方が先走って覚悟を決めてしまうのを恐れて、ともかく口を開いた。

「──辛くなってる、今の状況が。……結婚生活は続けたいから、状況をよくするための話し合いをしたい。」

香織は、口許に、ほとんど見間違えのように微かに笑みを過ぎらせた。そして、

「わたし、今、そんな話したっけ?」

とぎこちなく首を傾げた。城戸には意外だったが、彼女は、離婚の意思を持っていない様子だった。数ヶ月前には、今にも自分から切り出しそうな雰囲気だったが。──そして、夫がそう打ち明けざるを得なくなったことに同情さえしているような眼差しになった。

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