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ある男|18−2|平野啓一郎

美涼のメッセージは、最後に、「城戸さんはお元気ですか?」という、平凡だが余韻のある問いかけで終わっていた。

城戸は、谷口大祐を探すのに、恭一の手を借りることを諦めていた。

恭一は、小林謙吉についてネットで検索し、その凄惨な事件の内容にいよいよ激しい拒絶反応を示していて、とにかく、もう関わりたくないといった感じだった。何度となく、城戸に「別世界」という言葉を用い、せっかく恵まれた環境で生まれ育ったのに、わざわざそんな連中のいる場所に足を踏み入れていった弟は、救いようのない馬鹿で、自業自得だ、と以前よりも一層辛辣に罵倒した。下手に関与して、自分までこの事件に巻き込まれるのは真っ平だと吐き捨てた。

この事件を唯一相談していた事務所の中北は、谷口大祐探しに、恭一はともかく、美涼を関与させることには首を傾げた。

「城戸さん、ちょっと迂闊だと思うよ。だって、その人は元カノでしょう? ストーカーとかだったらどうするの? 谷口大祐って人だって、本当は彼女から身を隠すために逃げてるのかもしれんよ。今までの話だと、実家の関係が悪くなって、戸籍を捨てたってことになってるけど、……どうかな? 色々理屈をつけて、ストーカーが行方を捜すっていうのはあるよ。」

城戸は、思いがけない指摘に黙ってしまった。美涼に限ってそんなことは考え難かったが、しかし、何の根拠もない思い込みだと言われればそれまでだった。そして、中北の一言が、この一年間、彼の心をあれほどまでに捉えていた美涼の印象にさえ、暗い影を広げてゆこうとすることに、彼はやりきれなさを感じた。

誰も、他人の本当の過去など、知ることは出来ないはずだった。自分の目の前にいない時、その人が、どこで何をしているのかも。いや、たとえ目の前にいたとしても、本心などというものは、わかると考える方が思い上がっているのだろうか。……

中北は、自分のデスクに戻ろうとする城戸に、唐突に、「──大丈夫、城戸さん?」と尋ねた。

城戸は、妻だけでなく、なぜ彼まで同じことを訊くのだろうと訝りながら、微かに目を見開いて、「どうして?」と頬を緩めてみせた。

城戸は、「代理人」と連絡を取るに当たって、その方針を整理した。

もし彼が谷口大祐本人なら、恐らく今は「曾根崎義彦」と名乗っているはずだった。そして、弟である彼は彼で、恐らく恭一とは、接触を持ちたくはあるまい。同時に、中北の意見も尤もで、美涼の名前を出すことも慎重にすべきだった。

相手の素性もわからぬまま、こちらを信用してもらう文章を書くというのは、骨が折れた。関心を惹起するには、いずれにせよ、すべて説明し尽くさない方がいいのかもしれない。「曾根崎義彦」という名前も出さず、「S.Y.」というイニシャルを用いることにした。

城戸が書いたのはこうである。

「突然ご連絡差し上げます無礼を、どうぞ、お許しください。

昨年十月八日に、谷口大祐氏のアカウントに送られたメッセージの件でご連絡差し上げました。

私は、谷口大祐氏のご夫人より依頼を受け、代理人を務めております弁護士の城戸章良と申します。神奈川県弁護士会に登録しており、以下の弁護士事務所で共同パートナーを務めております。詳しくは、リンク先のホームページをご覧いただければ幸いです。

実は、谷口大祐氏は、三年前の九月に事故により死亡されています。詳しいことはここでは申せませんが、生前縁のあった方の中で、S.Y.氏とコンタクトを取りたく、調査をしておりましたところ、谷口氏名義のアカウントを発見し、管理者と連絡を取り、Yoichi Furusawa様よりの削除要請のメッセージを拝見した次第です。

大変失礼なのですが、Yoichi Furusawa様は、S.Y.氏の代理人ではございませんでしょうか?

もしそうであれば、どうしてもお伝えしたい件があり、ご返事いただけましたら幸いです。

こちらの一方的な勘違いでしたら、失礼をお赦しください。このメッセージは、どうぞ、読み捨ててください。」

我ながら怪しげな文面で、返事はあまり期待できなかった。しかし、幾ら捨てた戸籍とは言え、かつての自分が死んだと知らされれば、やはり気になるのではあるまいか。城戸は何となく、彼が、今はやはり、どこかで、自分のかつて捨てた人生を、懐かしんでいるのではという感じがしていた。

それに、「曾根崎義彦」こと原誠が、本当に谷口大祐と戸籍を交換していたなら、今、「曾根崎義彦」と名乗っている彼は、遺された原誠の妻を通じて、戸籍交換の事実が露見することを不安視するのではあるまいか?

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