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ある男|21−2|平野啓一郎

城戸は香織に、遠くから見てもありがたみのない鉄塔だが、間近で見てもふしぎなほど感動しないと、思った通りのことを言ったが、香織も、「ほんとね。」と同意して笑った。颯太が途中で、ガチャガチャを一回どうしてもしたいというので、城戸が小銭を出してやった。鎧兜のミニチュアだった。

水族館は、同じ建物に入っていて、こちらも混んではいたが、行列は短かった。三人で、八景島のシーパラダイスには行ったことがあるが、ここは、城戸も香織も初めてだった。

中は、今風の薄暗いデート向けの照明で、颯太は小躍りして人混みを歩いたが、クラゲや小魚などには見向きもせず、少し高い水槽のラッコなどを見せてやろうと抱きかかえても、「もういい。」と素っ気なかった。サメやエイが見られる水槽は、最近、シネコンでよく見る巨大スクリーンのように壮観で、ここが見所だと人集りが出来ていたが、颯太は今度は、「こわい。」と言って足早に通り過ぎた。城戸は、香織と顔を見合わせて苦笑した。

ペンギンのゾーンは、大きなプールを上から見下ろす作りになっていて、颯太はその構造に興奮したようだった。青い水槽に人工の岩場が設けられていて、下の階に降りると、目の高さで水中を泳ぐペンギンを見ることが出来る。

群れをなして泳ぐその影が床に落ちて、それらだけを見ていると、飛翔しているようだった。水槽の外から見上げる水面は、絶え間なく攪拌されていて、天井から注ぐ光を揉みしだいている。皆が同じ方向を向いて泳いでいるのに、ほんの数羽が深く、斜めに反対方向へと突き進んでゆくと、やがて群れ全体が方向を転じる様を、城戸は面白く眺めた。

そして、気がつけば、颯太と香織の姿はなくなっていた。

二人を見失った城戸は、しばらくペンギンのゾーンをうろうろしていたが、見つけられなかった。携帯で連絡すると、もう出口付近のグッズ売り場にいるという。なんだ、と行ってみると、颯太は「おとうさん、まいご!」と、姿を見るなりおかしくて堪らないという風に飛び跳ねて笑った。城戸が顔を顰めてみせると、いよいよ止まらなくなった。記念に何か買ってやるつもりだったが、散々物色した挙句、欲しいものがなかったらしく、昼食後に他の店で探してみることになった。

レストランフロアは、どの店も気が滅入るほど長い列が出来ていたが、七階の世界のビールを集めた店だけはすぐに入れそうだったので、颯太の食べられるものがあるか確認して、そこにすることにした。

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