ある男|12−1|平野啓一郎

横浜地裁の吹き抜けのロビーで、城戸は終わったばかりの五回目の口頭弁論期日のことで、依頼者の両親と立ち話をしていた。この二年近く取り組んできた過労死の訴訟で、被告の居酒屋チェーンに対する世論の批判も高まっており、和解に向けて動き出しそうな気配だった。

裁判期日の経過については、このあと、労組も交えた報告会で説明する予定で、今後の方針を改めて確認した。依頼者の父親は、「先生、……」と城戸の目を見た。

「勝ち負けじゃなくて、何があったかを知りたいんです。あの子がどうして、死ぬことになってしまったのか。」

城戸は、ここに至っての念押しに、「ええ、そうですね。」と、それを理解していることをはっきり示すように頷いた。

依頼者の父親の、もう八割方、白くなった髪は、額こそ広いものの豊富で、刈り上げできちんと整えられていた。いつもハの字の長い眉の下で、三角定規を二つ並べたような目は、潤んだように光を含んでいる。世論は、この過労死事件に同情的だったが、メディアに映るなり、誰もが不憫に思わずにはいられないこの父親の表情もそれに与っていた。

「一緒にがんばりましょう。いい方向には向かっています。」

城戸のいつもの決まり文句に、依頼者は特に勇気づけられた風でもなかったが、どちらかというと、この一年間、親しんだその口調に感慨を抱いた様子だった。

「先生には本当にお世話になりました。最初は、何をどうして良いのか、ただ混乱するばかりでしたけど、どうにか気をしっかりと持っていられたのも、先生のお陰です。裁判で、あの子が帰ってくるわけじゃないですけど。……」

城戸はその言葉を慎みを以って受け止めつつ、やはり、「がんばりましょう。」しか言わなかった。しかし、決して本心を疑わせないその依頼者の言葉には、心を動かされた。

城戸はこの日、出がけに駄々をこねて服を着替えようとしない息子を怒鳴りつけ、一日中、気が咎めていた。

昨日から、妻が大阪に出張中なので、城戸は颯太と二人で留守番をしていた。

夕食はファミレスで済ませ、入浴も就寝も普段と変わらなかったが、今朝、目を覚ますと、リヴィングのテレビで一人で『ドラえもん』の映画のDVDを見ていて、それから、朝食を摂らせようとしても、顔を洗わせようとしても、ずっとだらだらしていた。城戸は、風邪でも引いているのかと最初は心配していたが、熱もなく、本人も体調は悪くないと首を振った。それでも、いつまで経っても食卓につこうとしないので、段々と彼の口調も厳しくなっていった。

城戸は、今朝は九時半に一つ約束があり、時計を見ながら気が急いていた。

颯太がどことなく不安定なのは、この二週間ほどのことだった。公文の宿題をやらないと香織が叱りつけるので、元々、過熱気味の幼児教育に否定的な城戸は、「足し算なんて、どうせそのうち出来るようになるんだから、今そこまでしてやる必要はない。」と息子を庇い、口論になった。子供の教育問題が、意外に根深い夫婦の不仲の原因であることは、離婚相談でよく知っていたが、それにしても、この程度の話し合いさえ静かに出来ないというのは真面ではなかった。城戸の見るところ、香織自身も、習いごとの送り迎えに疲弊していたが、労るつもりで言ったそのことが、火に油を注いでしまった。そして、颯太は母親から余計に酷く叱りつけられることとなった。

城戸は、香織の子供に対する態度を見ていて、初めて真剣に離婚について考えてみた。妻が、この結婚生活にストレスを感じているのは明らかで、しかも、彼女という人間が根本的に嫌いではない城戸は、別のパートナーと人生を再開したなら、彼女も以前のような精神的な落ち着きを恢復するのではと感じていた。

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平野 啓一郎

ある男|平野啓一郎 連載小説

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