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ある男|22−4|平野啓一郎

道は大きくうねっていて、時々視界が開けると、遥か遠くの下方に、先ほど通ったらしい道が見えた。意外と高いところまで、登って来ていた。

「雨でも作業はするんですか?」

「まあ、これくらいなら。あんまり大雨だと事故もありますし、やりませんけどね。早目に切り上げたり。」

城戸はふと、原誠が里枝の文房具店を二度目に訪れた日が、豪雨だったという話を思い出した。恐らくは、仕事が休みになったか、途中で引き上げた日だったのだろう。

「あー、こういう現場は、ちょっといただけませんなあ。汚いでしょう、伐採のあとが。うちだったら、こんなことしませんよ。立つ鳥跡を濁さずで、きれいにしていきますから。──もうすぐですからね。」

「暗くなると、この辺の道は恐いでしょうね。道も細いし、さっきみたいな対向車が来ると。」

「でも、ここはまだ、良い方ですよ。もっと急峻な現場もありますから。私はあんまり難しい現場は買わないんですよ。事故が恐いですし、効率も悪くて、結局、儲けも少ないですから。」

「なるほど。」

それからしばらく、黙っていたあとで、伊東はぽつりと呟いた。

「谷口君は、かわいそうなことをしました。今でも毎朝、仏壇に手を合わせてますよ。私は、親父からこの仕事を継いでから、今まで一遍も大きな事故を起こしたことがなかったものですから。本当に辛いです。……あの時に限って、丁度、どうしても断れない人から頼まれた条件の悪い現場だったもんですから。」

「そうだったんですか。……労災は多いですね、林業は。」

「ええ、飛び抜けて多いです。百人に一人ですから。伐採だけじゃなくて、機械が崖から落ちたりとか。あと、蛇とかスズメ蜂とか。」

「ああ、そういうのもあるんですね、……確かに。」

「祖父の代には、朝鮮人の労働者も働きに来たりしてたんですよ。」

城戸は、思いがけない話に、ほう、という顔をした。しかし、伊東はそれに気づかず、特に続きを話すわけではなかった。

「──谷口さんの事故は、どういう状況だったんですか?」

「私は現場にいなかったんです。……難しいんですよ、木の倒れる方向ばっかりは、どれほどベテランになっても読めないところがあって。特に曲がった木とかがあると、それに引っかかったりして。とにかく事故だけは気をつけろって、毎朝、口を酸っぱくして注意してるんですがね。……」

城戸は、小さく頷いて、しばらく伊東の気分が落ち着くのを待った。悄然とした声で、敢えて見なかったが、涙ぐんでいる気配を感じた。

「原誠」という本名でのつきあいだったボクシング・ジムの会長もそうだったが、その死が、深い交友を持った人たちに、今以て悲しまれていることを城戸はつくづく感じた。誰一人として、彼を悪く言う者はなかった。そして、彼らのそれぞれの心に残り続けている傷の存在も知った。

ほどなく、前方に車が駐まっているのが見え、ブルーシートや山積みになった木材などが見えてきた。伊東は、「ここです。」と言いながら、対向車が辛うじて通れそうな場所に絶妙に車を駐めた。

傘を差して降りると、伊東は、

「あんまり先に行くと危ないんで、気をつけてください。この辺からで、大丈夫ですかね?」

と城戸に現場の入口付近を案内した。

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