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ある男|17−4|平野啓一郎

城戸も、少し表情を和らげて静かに言った。

「まず、これまで何度も言ったけど、俺は浮気はしてないよ。」

「それはもう、いいの。──最近は、言ってないでしょう、何も?」

「無言は無言で不気味だよ。」

「被害妄想ね。」

「よく言うな、自分から疑っといて。」城戸は頬を歪めて苦笑した。「……ただ、浮気じゃないけど、この一年、とある人物のことをずっと調べてて、それにのめり込んでたから、そう見えたかもしれない。女性じゃなくて、男だよ。仕事に関係のある話だから、言わなかったけど。」

「誰なの?」

「──死刑囚の一人息子なんだよ。……」

城戸は、このところ、パソコンに向かって執筆を続けてきた原誠の人生について、初めてまとまったかたちで人に語った。小林謙吉の生い立ちから始めて、その殺人事件の内容、原誠が受けたいじめ、母親に捨てられて施設に入ったこと、ボクシング・ジムに通い、プロデビューした後、〝事故〟でその夢が潰えてしまったこと。……

香織は、そんなことをどうして自分に話しているのかと、最初は怪訝そうな顔をしていた。夫があまりに熱心に語るので、聴いているというより、その様子を見守っている風だった。

それでも、原誠の戸籍交換に話が及ぶと、「そんなことって、あるの?」と、半ば気遣いめいた興味を示した。里枝のことは曖昧にぼかしたが、彼がその後、子供を亡くした不遇な女性と結婚し、短いながらも幸福な家庭を築き、最後は林業の伐採現場で事故死したことは話した。

香織は、最後までつきあったものの、やはり不可解そうに、

「数奇な運命だけど、……彼の人生が、あなたにとって何なの?」と尋ねた。

城戸は、妻らしい身も蓋もない問いかけに、自嘲的に言った。

「さァ、……最初は何でもなかったんだよ。ただ依頼者の境遇が不憫で引き受けた仕事ってだけで。そのうちに、他人の人生を生きるってことに興味をそそられていって、彼が捨てたかった人生のことを想像して、……現実逃避かな。面白い小説でも読んでる気になってるんだろう。」

「悪趣味ね。」

「そう?」

「何から逃避したいの?」

城戸は、妻の顔を見たが、返答に窮した。

「……色々だよ。何だかんだで、……震災の後遺症もあると思う。自然災害だけじゃなくて、さっきテレビでやってたみたいなこともあるから。……」

城戸は、それらに起因する夫婦の関係の悪化を当然に考えたが、口にはしなかった。

「あなただけじゃないでしょう、それは?」

「そうだね。……君のストレスも、もっと気遣うべきだったと思う。」

「カウンセリングにでも行ってきたら?」

「何?」

「そんな大袈裟に考えなくても、話を聴いてもらうだけでも、気分が変わるんじゃない? あなたの仕事、そうでしょう?」

「俺はカウンセラーじゃないよ。」

「カウンセラーじゃないけど、当人同士で解決できないから、相談に乗ってるんでしょう? わたしに話しても、多分、駄目でしょ、あなた?」

「そりゃ、お互い様だよ。俺たちは、ハッキリ言って、何か、うまくいかなくなってる。とにかく、話し合うことが必要だと思ってたけど、君の言う通りかもしれない。話し合うにしても、そのあとだろう。俺だけじゃないよ。君も行くんだよ、カウンセリングに。」

「わたしは大丈夫。」

「どうして?」

「適当に人に相談してるから。」

「専門家じゃないだろう? 話すべきことを話してないよ、きっと。」

「何、例えば?」

「……俺はとにかく、颯太に優しく接してやってほしい。叱りすぎだよ。」

「どこが?」

「夫にそう言われたってところから、カウンセリングが始まるよ。」

香織は、呆れたように首を横に振った。

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