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ある男|19−5|平野啓一郎

城戸は、彼女の至極当然のように語ったその愛についての考えに感動していた。

「そうですね。……愛こそ、変化し続けても同じ一つの愛なのかもしれません。変化するからこそ、持続できるのか。……」

間もなく名古屋に到着するというアナウンスが流れた。美涼と会うのも、これで最後だろうと思うと、名残惜しかった。

城戸は、彼女の語っていた最近の失恋話のことをまだ考えていた。そして、窓から外を眺めている彼女の横顔を、彼自身も景色を眺めるふりをしながら見ていた。

おめでたい勘違いを自嘲しながら、鈍感であることに努めて留まろうとしていた。

彼は、妻との関係を立て直したいと願っていた。そして、美涼の告白の中にあった「もう諦めることにしたんです」という言葉を、そのまま受け止めるべきなのだと自分に言い聞かせた。

日帰りのつもりだったので、二人とも特に大きな荷物があるわけではなかった。しかし、それにしても、車両が停車するぎりぎりまで、どちらも席を立たなかった。

ほんの一瞬、城戸の中には、このまま名古屋で降りずに、一緒にどこかに行ってしまいたいという気持ちが芽生え、俄かに高ぶった。心拍は、それを言い出すものと思い込んでいるかのように速くなった。しかし彼は、先ほど恭一に対して彼女の語った「もうこんなおばさんになってるから、何にもいいことなんかないのに」という言葉を、その意図には反しつつ、つくづく共感しながら反芻した。

俺ももうこんな「おじさん」になっていると城戸は思った。なるほど彼女の言う通り、きっとお互いにとって「何にもいいことなんかない」はずだった。

未練を断ち切るように、最後は城戸が先に立って、「行きましょう。」と声を掛けた。美涼は、振り返ると、またあのどことなく物憂いような明るい表情で頷いた。

城戸は手を差し伸べた。美涼は破顔して彼の手を握り、「よいしょ。」と立ち上がった。そして、城戸の気遣いを喜び、本心を疑わせぬ声で礼を言った。

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平野啓一郎新作長編小説『ある男』本日発売。

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