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蛙読天

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主宰による毎日の連載です。
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記事一覧

20240508 クラウドファンディング に挑戦します(9年ぶり二度目)。

劇団をはじめようと思った2015年にクラウドファンディングに挑戦したことがあった。どう考えても自分たちが想定している動員とチケット代の収入だけではすべての支出を賄うことができないと思って資金調達に挑戦したのだったけれども、その時に御礼として設定した「永年会員」というパスを使って今も私たちの公演に足を運んでくださる方々もいて、単に作品を見てもらうだけではなくて、そうして若い劇団が四苦八苦しながらなんとか公演を続けるのを共に歩んでくれる方がいたことはとてもうれしいことだと思う。

20240507 みんなで話し続ける

かつて演出家の鵜山仁さんがアフタートークに来てくれて、演出という仕事についていろいろと話をしてくれた時に印象に残っているのが、「Aという意見とBという意見があった場合に、Cを導くのが演出という仕事」という話だった。 ▼個人的にはその話を創作過程のコミュニケーションの質が創作の質につながるということなのかなと理解して、今もその話を折に触れて思い出す。ある意味では弁証法的に、その途中に生まれるコミュニケーションにもきちんと丁寧に時間をかけて進めていくことができたら理想的だなと思

20240506 殺された鉄棒

『若き日の詩人たちの肖像』で有名な一説というのはいろいろあるにせよ、主人公の男が藤原定家の『明月記』を引きながら「日本の最悪の時」にあって文筆家がどう過ごしていたかを確かめるようにして、いよいよ本格的な戦争を迎えるこれからの日本のことを考えているのは小説を読んだ人にとっては結構印象的な描写なのかなと思う。 ▼東京に上京してきてすぐに二・二六事件と鉢合わせるという、数奇といえば数奇な運命を辿った堀田善衞さんだけれども、思えば自分が生きてきただけでも学生の時に東日本大震災があっ

20240505 今ひとたびの、戸山ハイツの夜

唐十郎さんが亡くなられた。私のように小劇場演劇の末席に身を置くものにとってみてもその存在はきわめて大きく、文字通り巨星墜つといった感じでニュースを目にしたときはとても寂しかった。直接お目にかかったことはなかったけれどもその戯曲と演劇論に大いに刺激され、横浜国立大学時代の教え子である劇団唐ゼミ☆の中野敦之さんを通じて唐十郎さんの作品の上演に参加することができたことをとてもありがたく思う。 ▼唐十郎さんといえばもう「特権的肉体論」であり、2016年に演劇博物館で開催された「あゝ

20240504 思想上のトンカツ

たとえばみんなで居酒屋で働いているとして、あるときバイトのチーフが他店に研修に出かけたとする。研修に行った先が日本屈指のとんかつ店で、帰ってきた彼はとんかつという料理の奥深さや極上の豚肉の脂の旨味について力説する。曰く「この店でもトンカツを看板メニューにしたい。賄いもこれからぜんぶとんかつにするから」と。彼の言っていることはわかるのだがしかし困ったことに、私はイスラム教徒なのだった。 ▼これはあくまでただの喩え話だけれども、長く生きていればそういうこともまあ起こりうるのだっ

20240503 自立していること、元気であること。

日数だけ見ると本番まであと二週間だけれど、本番の週の月曜日には現地に入って設営をするので稽古場で過ごすのはあと10日ほどである。本番前の最後の日曜日は予備日としてとってあり、積み込みをしたり一応各自髪を切ったり買い物をしたりコンディショニングをしたりできるようにしてある。余裕をもったスケジュールが肝要なのだと、若い頃のいくつかの失敗を経て思う。 平泳ぎ本店/Hiraoyogi Co. 第8回公演 戸山公園野外演劇祭参加作品 『若き日の詩人たちの肖像』 2024年 5月17日

20240502 冷や水では足りないので

これもまた最近読んでいた本のなかで、アメリカの芸術助成団体は芸術の実演団体にとっても中長期の計画を立てることがプロダクションの成功と安定につながるので、助成をした団体がどれくらいプランニングに時間をかけるようになったかをデータとしてとっている、という話があった。 ▼実際きちんと中長期の計画を立て、それに沿って成長していけたら一番いいと思うけれども、東京でいわゆる小劇場と呼ばれる規模の演劇をやっている人たちの中でそうした計画をきちんと立てて着実に実行できている方たちがどれくら

20240501 (おおよそ)地球八周半

「テクストのコラージュ」と「演劇への批評性」というのがたぶん、私が主宰する平泳ぎ本店という演劇カンパニーの特徴だ、ということを先日稽古場でなんとなくみんなで話していた。今回参加してくれている俳優の熊野晋也さんは(ありがたいことに)以前から平泳ぎの作品を観てくれていたから、その熊野さんから見てもこの二点はまあ結構芯を食った特徴なのではないか、ということだった。 ▼加えて俳優による主体的な創作、俳優によるアイディアを持ち寄った創作(ディバイジング)によってつくられているというの

20240430 空間と渡り合うために

▼https://x.com/hbnk/status/1785248432783073442 ひびの先生が言及されているのは静岡のふじのくに世界演劇祭で上演された瀬戸山さんの『楢山節考』のことだろうなぁ、と考えながら、演劇をつくる人間のスタイル、というものについて思いを馳せずにはいられなかった。 ▼瀬戸山さんは『楢山節考』以外にも『山椒魚』やガルシア・ロルカの『イェルマ』を利賀で発表されているはずで、それらの作品もすべてそうした鈴木忠志さんの模倣だったのかは定かではないに

20240429 この身に言葉をたたえて

太田省吾さんが『小町風伝』を書いたとき、劇場となった矢来能楽堂の下見に行った際に舞台に立ってみて「俺が書いた台詞はこの舞台に蹴られる…」という直感を得、急遽書いた台詞を発語せず、俳優はその台詞をもった(覚えた)まま、無言でその台詞を表現するという演出に変えた、という話があった。 ▼後に太田省吾さんは台詞のない『水の駅』などの沈黙劇と呼ばれる作品群を発表するようになる訳だけれども、その劇作家の直感というのはとても興味深いなと思う。俳優が発語すればなんでもいいというわけではなく

20240428 『離見の見』相互補完システムの構築

「いいか、俺たちは今回『離見の見』相互補完システムを構築するんだ!」という話を、今回の創作の初日にみんなで集まった日にした。「離見の見」というのは言わずと知れた世阿弥の『風姿花伝』に書かれた能の奥義で、能に限らず舞台に立つ者なら誰しも手に入れたい究極の精神状態だといえる。 ▼客席から、舞台の上の自分を見つめるような感覚のことなのだととりあえずは理解してもらえればよいと思う。己の主観から遠く離れて、舞台に立つ自分のことを客観視する。鏡がなければ見えないはずの自分の体を自分で見

20240427 海の外へ、海の外へ

日本の演劇人として海外で活躍されてきた方は多くいらっしゃるけれども、私にとってまず真っ先に頭に浮かぶのは鈴木忠志さんで、その次が(間をいろいろ端折ってしまうと)平田オリザさんや宮城聰さん、岡田利規さんといった方々である(蜷川さんとかももちろん海外で公演をされてきてはいるし、近年では藤田俊太郎さんの例ももちろんあるけれども)。 ▼鈴木さんと宮城さんは演出家で、平田さんと岡田さんはどちらも務められるが、どちらかというと劇作家という印象が強い。平田さんがフランスなどの海外に呼ばれ

20240426 アイディアの地層

何年か継続して創作を続けていると、ある種のテクストを前にしたときに「こういう言葉に対して私たちはこうアプローチする」という構えがある程度定まってきたりする。”手癖”やいつも同じことをするということではなくて、ある一つの方向に向かって限界まで自分たちの感覚や技術を押し拡げる、というようなイメージが近い。 ▼初めから誰しもできることをよりよくできるようにする、というよりかは、俳優それぞれが今できないことをまず必死にできるようにし、そこから可能な限り磨き上げるという感じなので、リ

20240425 5%

「芸術監督という仕事をやっていると、演劇の創作(演出)に使える純粋なエネルギーは5%ほど」というのはSPAC静岡舞台芸術センターの宮城聰さんの言葉だった。宮城さんでもそんなに大変なんだ(事務仕事なんかに追われるのだなぁ)と思うのと同時に、たったの5%であれだけの作品を世に送り出しているのかと思うと恐ろしいような気もしたものだった(『白狐伝』では宮城さん自身が出演もされるから無茶苦茶大変だろうと思う)。 ▼東京芸術劇場の芸術監督が野田秀樹さんから岡田利規さんにバトンが渡される