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世界と出会い、知性を身につけること、世界を変えうる自分であろうとすること|『哀れなるものたち』


※本編の内容に関する記述が含まれます




あらすじ

不幸な若い女性ベラは自ら命を絶つが、風変わりな天才外科医ゴッドウィン・バクスターによって自らの胎児の脳を移植され、奇跡的に蘇生する。「世界を自分の目で見たい」という強い欲望にかられた彼女は、放蕩者の弁護士ダンカンに誘われて大陸横断の旅に出る。大人の体を持ちながら新生児の目線で世界を見つめるベラは時代の偏見から解放され、平等や自由を知り、驚くべき成長を遂げていく。


映画.comより



あれよあれよという間にとんでもないところまで連れていってくれる映画で、「そうだこういう体験がしたくて映画を見てるんだったなぁ」と思い出したりした。あとから色々考えて、思うことがあっても、劇場を出たとき私はたしかに感激していた。




性描写が多いというのは事前に知ってしまっていて、そして実際に多いのだけど、それ以外のところ、たとえば、街を歩いたり。歌をはじめて聞いたり。タルトを食べたり。ダンスを“発明”したり。そういうシーンの一つひとつが嬉しい。ベラがひとつずつ世界を見つけて、その全部を全身全霊で感じている姿を見ることが、こんなにも嬉しい。
そういうシーンも取りこぼさずに描いているから、ベラの性的探求も世界と自分を知るための数あるうちの一つの(そして重要な)要素なんだと思えた。

性に奔放な女性キャラクターが描かれている作品では、それが作り手によって「都合の良い女性像」になってはいないか、注意深くなる。
だけどこの作品ではそう感じなかった。ただそれは、ベラ役のエマ・ストーンがプロデューサーも務め、企画、脚本の段階から主体的に参加していたという映画外の情報を知っているから、ということも大いにあると思う。

それと、性描写に関してどうしても気になったのは、避妊について。
この作品の世界にも当然妊娠はある。というか、ベラの自殺、そして蘇生のそもそもの原因のはずだ。
この人生もこの身体も私のものだと絶叫するかの如く己の道を邁進し、知的・性的探究心の追求と経済的自立を求めた結果セックスワーカーとして働き出したベラが、自身のリプロダクティブ・ヘルス/ライツと向き合う場面がないことが、どうしても不自然に思える。意図的に省いたようにさえ思える。


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ベラはダンカンとの船旅のなかで、とにかく本を読む。本を開く度、彼女は新たな世界と出会う。知性を身につける歓びを知る。そんな彼女を、ダンカンは抑え込もうとする。「無垢」な彼女を愛でていたのに、そんなことを知られたら都合が悪いからだ。しかし、ダンカンに本を取り上げられ海に放られようが、屈することなくベラは次々新しい本を手に取る。ベラの横で静かに新たな本を差し出すのは、船上で出会った老婦人マーサ(ハンナ・シグラ)。

『バービー』でも、人間界に来たバービーと見ず知らずの老婦人との出会いが、最後にバービーが人間としての生きることを決断する大切なきっかけになったはずだ。
どちらの作品でも、彼女たちは「このような生き方がある」という可能性を逞しく提示してくれる人生の先輩のようであり、こんな世界で手を取り合ってくれる同志のようでもある。



ベラは働きだした娼館でも同志と呼べるような女性と出会い、彼女の影響で社会主義思想を知り、ついには医学を学びはじめ、医者を志すようになる。

世界を知ること、知性を身につけることは、それ自体が女性にとってすでに「抵抗」である。
「可愛がられる程度に」「賢くなりすぎるな」「無垢であれ」と抑え込もうとする社会は、何度も少女たちから本を取り上げて海に放り投げようとする。
しかしベラという人は、その度に新たな本を開き、ときには同志と手を取り合い、世界をより良く変えられるような自分になるための成長をやめなかった。


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物語の最後、ベラは以前の自分を自殺に追い込んだ元夫を殺す…ことはせずに、その男にヤギの脳を移植して飼う。
これまでの歴史の中で、女性は一人前の「人間」として扱われてこなかったという事を、その男を非人間化することで反転させるミラーリングといえるかもしれない。
(ヤギの生をそのように扱っていいのか、そんな人間に移植されてヤギ側はどうなのか、という疑問はある)



そんなラストまで含め、何度も驚かされ、喜び、奮い立たされた。ベラと共に目の覚めるような鮮やかで壮大な旅に連れて行ってくれるような映画だった。
またベラに会いたい。

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