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選択という自由の擬似餌

自由とは何か?
このシンプルな問いに答えるには、以下のことをはっきりさせておく必要がある
自分が問いに答えるのか?
問いが自分に答えるのか?

例えば本を読んでいるとする
自分はその本を読んでいるつもりだが、実は本があなたを読んでいる
なぜなら、そこに書かれていることは、あなたか読み取る分しか、読み取ることができない
どんなに優れた本でもあなたに読み取る力がなければ、その本の力は取り出せない

ここに自由がある
あなたに自由になる力がなければ、自由があっても自由になれない
つまり、自由とは何か?という問いは、あなたには自由になる力はあるか?と問うているのだ

あなたは自分は自由だというだろう
なぜなら自分には選択肢があるから

では、その選択はあなたが勝ち取ったものだろうか?
もしあらかじめ用意されていたのなら、それは自由の擬似餌である

ネットにはいろんなことが書いてある
その向こうには無限の選択肢があるように感じる
だが、それをみているあなたはどこにいて、何をしているのか?
会社で周囲の目を盗みながら見ているのか、電車の中で隣の人に肘がぶつからないようにスマホを覗いているのか?
だとしたら、スマホの向こうに広がる選択肢とはあなたにとって何なのだろう?

誰かがインスタで、素敵なカフェに行ったと自慢する
その自慢に対し心が折られないための唯一の選択は、そのカフェに自分も行くことだ
行ったことで、自分も自由だと感じる

だが、あなたは本当にカフェなどに行きたかったのだろうか?
あなたは本当はあなたにしかできないことがあって、そのことに全ての時間を費やしたいのではないのか?
呑気にコーヒーでも飲んでいようと思ったのは、自分のやりたいことと自分の能力の整合性が取れないことからから目を逸らすためではないのか?
ネットにはそんな時のための「気晴らし」が溢れている
あなたが自由と呼んでいるものは、その「気晴らし」の中から一つを選択することに過ぎないのではないか?

Hit or eatとは中村達也の言葉である
ほぼ毎日どこかでライブをやる彼の一日は、ドラムを積んで車を運転し、ドラムを叩き、飯を食う
インスタにはドラムを叩いている写真か、飯を食っている写真しかない

極める、と口で言うのは簡単だ
だが、それが実際にそれをできる人が少ないのは、自由の擬似餌に簡単に引っ掛かってしまうからだ
自由の擬似餌はとても精巧に出来ている
見破ろうとして見破れるものではない
だから最初の問いに戻るしかない
自由とは何か?
その問いはあなたに問い返す
あなたには自由になる力はあるか?と


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