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失われた地平線〜バート・バカラックの悲しいターニングポイント

前回掲載させていただいた自分のバート・バカラックの個人的な思い出話の記事について1973年「失われた地平線」の実際の上映をご覧になったというShiominさんからもコメントもいただきまして、ネット上にあった「失われた地平線~1973年版」をついに見ることが出来ました。Shominさんの「ブラジルでは大ヒットしていた!」とのコメント通り、ポルトガル語で検索するとあっさり出てきます!

「Horizonte Perdido」HD版


さらにバート・バカラックの自伝「ザ・ルック・オブ・ラブ(原題:Anyone Who Had a Heart)」も手に入れ、「失われた地平線」についての記載も読んでみました。なぜバート・バカラックが「世界は丸い」を始めとする「失われた地平線」の楽曲たちを最近になるまで封印していたのかその理由が少しだけ分かったような気がします。それについて自分の憶測ではありますが書いてみたいと思います。

1960年代後半から70年代初頭の頃、A&Mレコードと契約したバート・バカラックはまさに絶頂期とも言える活躍ぶりでした。60年代初頭からパートナーシップを結んでいる作詞家ハル・デイヴィッドとの強力なタッグはディオンヌ・ワーウィックを始めとする多くのヒット曲を次々と生み出しておりました。また映画「カジノ・ロワイヤル」のサウンドトラック、ブロードウェイミュージカル「プロミセス・プロミセス」のスコアと「恋よ、さようなら〜I'll Never Fall in Love Again」のヒット、そして最大のヒット曲となる「雨にぬれても」と映画「明日に向って撃て!」のサウンドトラックを制作し初のオスカーに輝いたほか、「Promises, Promises」はグラミー賞の年間最優秀キャストアルバム賞を受賞したほかトニー賞にもノミネートされ、「The Look Of Love」、「What's New Pussycat?」、「Alfie」といった楽曲もオスカーにノミネートされ、ポップス界に加えハリウッドでも向かうところ敵なしの快進撃です。この頃のバカラック=デイヴィッド・コンビは北米最強のソングライターチームだったと言えると思います。

1970年代に入ってのバート・バカラックはテレビ出演とライブに力を入れていたと言うことです。
NBCでは"An Evening with Burt Bacharach" and "Another Evening with Burt Bacharach"という2本の特番が放映されました。

1971年にはCBSでバーバラ・ストライサンドとのデュオ番組も制作されたそうです。
"The Burt Bacharach Special", (aka "Singer Presents Burt Bacharach”

この頃はNBCやCBSなどの全米ネットワークでのテレビ特番が大きな影響力を持っていたのでしょうね。各局がこぞってバート・バカラックの特番を制作しているとはその人気たるやさぞや凄まじいものであったのは想像に固くありません。Youtubeでもその映像は残っており大変興味深いです。ライブ情報については詳細はわかりませんがディオンヌ・ワーウィックとのラスヴェガスでのショーを開催していたとの記述が自伝にあります。北米芸能界ではラスヴェガスでの連続ショーの開催も一流アーティストの証明であります。一方、アルバム制作についても1971年「Burt Bachrach」をリリースしますが以前よりかはリリースペースがダウンすることになります。

その理由は1937年に作られた映画「失われた地平線」をリメイクするプロジェクトをスタートさせていたからです。

「失われた地平線」原作の小説は戦前の1933年書かれた実在の冒険家ジョージ・マロリーに触発されたジェームズ・ヒルトンの同名空想冒険小説。発表当時は社会現象となるほどベストセラーになり長期に渡って売上1位となったほどの超人気小説になったそうです。理想郷を表す「シャングリラ」という言葉が初めて使われたのはこの作品からだそうで、故ルーズベルト米大統領も愛読し大統領専用の公設別荘〜今のキャンプ・デービッド〜をシャングリラと名付けたほどこの小説が大好きだったそうです。当時は冒険小説ブームだったのですね!

1937年にさっそく映画化されていますが第二次世界大戦の影響もあって戦争批判部分をカットされた短縮版が上映されたりして当時としては満足されたものでは無かった様子です。そのため新たにリメイクが待ち望まれる作品だったと思われます。バカラックとハル・デイヴィッドへの依頼はプロデューサーのロス・ハンターから持ちかけられました。ロス・ハンターはディザスター映画の元祖「エアポート」(1970年)をヒットさせユニバーサル映画からコロンビア映画(現在のソニー・ピクチャーズ)に転身したばかりのやる気満々プロデューサー。ハンターは「恋する女たち」でアカデミー賞にノミネートされたラリー・クレイマーに脚本を依頼、1200万ドルの制作予算を確保し、コロンビア映画の最大の推し映画に仕上げるとバカラック=ハル・デイビッド側に提案したのでしょう。ここまで聞けば2本の映画と1本の舞台でオスカーやトニー賞を受賞している北米最強のソングライターチームにとって相応しいプロジェクトであったかと思いますがいざスタートしてみると色々と上手く行かなかったようです。

というのもバカラック自身も自伝に書いていますが、元々の原作が空想冒険小説であるにも関わらず、ミュージカル映画にしようとしたのは明らかに方向が誤っていたのではないでしょうか。60年代当時は「サウンド・オブ・ミュージック」「ウエスト・サイド物語」「チップス先生、さようなら」などミュージカル映画が人気を博していたのは確かです。自分も「世界は丸い」から入り、キャサリン先生と子どもたちのシーケンスを先に見たためこの作品はその流れのミュージカル映画なのかと思いましたが、全編をちゃんと見てみると決してミュージカル映画ではなく、エキゾチックな異世界へのトリップが主題となる、空想的でスリリングなストーリーのアドヴェンチャー映画になるべきであったと思います。特に終盤の展開はホラー&タイムリープ的な展開になっており、仮に主人公をマッチョな男性主人公に入れ替えるとまるで「インディー・ジョーンズ」のプロットのようになったのでは?とも思えます。「失われた地平線」が現代のホラー映画やアドヴェンチャー系ドラマにも影響を与えているのではないかというWikipediaでの指摘も納得です。


バカラック=ハル・デイビッドの楽曲たちが楽しく美しいのももちろんのこと、その使い方もミュージカルというより現代で言うところのミュージックビデオ的なイメージに近いです。美しい風景やセット、エキゾチックな衣装もミュージックビデオ感覚を先取りしていたのではないかと感じます。映画に詳しくない素人感覚の感想ですが、今見ても充分楽しめるし、ブラジルでは大ヒットしたというShiominさんからの情報で察するに色彩感覚や音楽感覚の優れたブラジルの人々に伝わったのではと予想されとても興味深いです。上記の動画は英語だけですが自動字幕を出してみると何とか追いかけられるのでぜひ皆さまにもチェックしてみてほしいです。

と言うわけで本来ミュージカル映画ではないのにミュージカル風のスコアや楽曲作りに取り組んだバカラック=デイヴィッド・コンビ。「プロミセス・プロミセス」の時のように舞台で何度か上演した上で調整したり「明日に向かって撃て!」の時はイエール大で音楽も専攻したジョージ・ロイ・ヒル監督が撮影したラッシュをバカラックに見せながら具体的な打ち合わせや調整時間を持てたのと比べて今回は全く違っていた、どの曲が使えるか使えないか事前にわからなかった、またかりにも全く使えない曲があってもシーンを書き直し再撮影するには数百万ドルの経費がかかったとバカラックは述べています。1971年からの約2年間をこの映画のために尽力し多くの曲を書いたバカラックにとって、心を込めて書いた曲が撮影したシーンに全く合わないことが分かってくるにつれてグチグチ文句を言い続ける事になってしまったようです。あまりにも文句を言い過ぎたためバカラックは映画の最終仕上げのダビングルームに音響エンジニアから入れてもらえなかったそうです。う〜ん悲しいですね。

また不幸なことに歌詞をさっさと書き上げメキシコでテニスに興じるハル・デイヴィッドに比べてバート・バカラックは製作開始のプレス向けの発表会では収録予定曲を一人で弾き語りさせられたり、現場ではキャストがどれほど歌えるか判断し歌えないキャストは吹き替え指示を、歌えるキャストには歌唱指導を行ったり、バカラックを追いかけるテレビ番組のためにメイキング撮影に付き合わされたり、バート・バカラックだけ有名人ゆえのいろんな仕事に駆り出され負担が大きいものになっていきます。ABCによるメイキングテレビ特番チームはセット内に無理やりテニスコートを作って当時の人気女子テニスプレイヤーとバート・バカラックをテニス対戦させる企画を実施させるなどとてもTVバラエティ的な展開をしますが、張り切ってしまったのかバートはテニスのプレイで無理をして肋骨を骨折してしまいます。プロデューサーのロス・ハンターはこのアクシデントに大激怒となりABCに放送中止を訴えるなど本当にゴタゴタが絶えなかった現場だったようです。

大怪我もしてしまい音楽はおろか映画自体の行方に非常に不安を抱いたバカラックは半ば追い詰められた状態に陥ってしまったのでしょう。それまではフェアに利益をシェアしていたハル・デイヴィッドに興収の分け前をもう少し自分に寄越してくれないかと申し入れたようです。これに関してはちょっと後出しで無茶なお願いかとは思いますが、当然ハル・デイビッドは拒否します。このことがきっかけでバート・バカラックとハル・デイビッドは仲違いしこの後に予定していたワーナー・レーベルでのディオンヌ・ワーウィックの新作プロジェクトがご破産になってしまいます。このことが原因となりディオンヌが二人の訴訟することとなりその後10年間、3人は互いに口もきかない関係となってしまいました。


【参考】「Lost Horizon」のキー・ビジュアル


1973年「失われた地平線」は公開されました。バカラックの予想通り、試写を見た映画評論家たちの酷評につぐ酷評、コロンビアが1973年の最有力作品として多額のプロモーション費用をつぎ込んでいたこともありハリウッドの人々はこの映画を「失われた投資」と呼び近年の映画界最大の失敗作とまで貶めました。先に上げたWikipediaやいろいろな記事に「失われた地平線」は大コケした大作映画の代表作として扱われネット上では700万ドルの損失はコロンビア映画の経営にも影響しかねないほどの損害だったとか。失敗の原因をバカラック=ハル・デイビッド・コンビに多額の報酬を与えたせいではないかとまで言う者まで現れたようです。今振り返るとミュージカル映画風のキー・ビジュアルと言い、いろんなことが噛み合っていなかった感じは大作プロジェクトにはありがちな「船頭多くして船山に登る」パターンに近いのではないかと考察出来ますが、キャリア最大の失敗を人前でかかされたバート・バカラックはすっかりふさぎ込んでしまって田舎に引っ込んでしまいました。17年続いたハル・デイビッドとのコンビやディオンヌ・ワーウィックとの関係もここで失ってしまったのです。バカラックは後に自伝の中でこの時の自分の態度をとても反省しておりますがこの後の数年間、作品作りが途絶えてしまったのは確かであり、「地球は丸い」を始めとする「失われた地平線」の素晴らしい楽曲たちが再びスポットライトが当たることになるには30年以上の年月が必要となりました。

バカラックにとってとても悲しい事件だったと思いますが色々と調べていくうちに一つ素敵な動画を見つけました。「The World Is A Circle」のフッテージです。おそらく映画製作中のバカラックを追いかけたABCテレビ制作の例の特番「Bacharach In Shang-Lila」の一部かと思いますが子どもたちに一所歌唱懸命指導するバカラックの屈託のない笑顔がこの曲を心の底から気に入って愛していたんだなと言うことが伝わってきて嬉しくなりました。

バート・バカラックの自伝には他にも色々興味深いことがたくさん書かれているのでまた別の機会に触れてみたいと思います。「世界は丸い」から始まったバート・バカラックに関するとても個人的な記事でしたが最後までお付き合いいただきありがとうございました!

【追記】
バート・バカラックさんが8日、94歳で逝去されました。ご冥福をお祈りします。


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最後まで読んでいただいたありがとうございました。個人的な昔話ばかりで恐縮ですが楽しんでいただけたら幸いです。記事を気に入っていただけたら「スキ」を押していただけるととても励みになります!