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【 PSYCHO-PASS 】 シビュラはディストピアではない|現実と自由意思との関係

「完璧な世界」
とても美しい耳心地だが、果たしてそれはユートピアだろうか。
はたまた不完全であるこの現代社会はディストピアだろうか。否、不完全であるからこそ人間的であり、不完全であるからこそ反ディストピア的なのではないか。
そんなお話。

下手したら4万字の卒論になっちゃいそうだったが、グッと内容を絞って4000字程度に収めた。長文厨の自分にしては頑張った。偉いぞ。
ちなみにヘッダーの画像はPSYCHO-PASSっぽいがPSYCHO-PASSではない何かしらのSF的画像である。

1.『PSYCHO-PASS』の概要

僕の好きなアニメの一つに『PSYCHO-PASS』という作品がある。ただの神アニメである。是非とも見てほしい。

舞台は、人間のあらゆる心理状態や性格傾向の計測を可能とし、それを数値化する機能を持つ「シビュラシステム」が導入された西暦2112年の日本。人々はこの値を通称「サイコパス(PSYCHO-PASS)」と呼び習わし、有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きていた。

その中でも、犯罪に関しての数値は「犯罪係数」として計測され、たとえ罪を犯していない者でも、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれていた。

そのような管理社会においても発生する犯罪を抑圧するため、厚生省の内部部局の一つである警察組織「公安局」に属する刑事は、シビュラシステムと有機的に接続されている特殊拳銃「ドミネーター」を用いて、治安維持活動を行っていた。

本作品は、このような時代背景の中で働く厚生省公安局刑事課一係所属メンバーたちの活動と葛藤を描く。

「PSYCHO-PASS サイコパス」『ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典』(https://ja.wikipedia.org/wiki/PSYCHO-PASS_%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%91%E3%82%B9)2024年4月10日1時 UTC

もう少し詳しく説明すると、「シビュラシステム」とはいうなれば社会の監視役である。
国民は「シビュラシステム」による推薦で仕事を選ぶまでにそれに信頼を置いている。もはや「シビュラシステム」なしでは生きていけず、「シビュラシステム」は国民のすべてを統括しているのだ。
さらに「シビュラシステム」による計測で「犯罪係数」が100以上と判定された者は「潜在犯」、つまり将来犯罪を犯す可能性が高いものとして更正施設*1 に入れられる。その中でも「犯罪係数」が300以上だった者は社会秩序を乱す危険分子として「ドミネーター」によりその場で射殺される*2 か、完全隔離される。犯罪の危険は事前に「シビュラシステム」によって計測可能であるため、刑法はもはや必要ではない*3 というフェーズに入っているのが『PSYCHO-PASS』で描かれている社会だ。

実はアニメの中では「シビュラシステム」は不完全なものとして描かれ、それがまた魅力なのであるが、詳しくはぜひ鑑賞して確かめてもらいたい。ほんとにおもしろいから。まじで!!

余談だが、僕が『PSYCHO-PASS』が好きな理由は、「正義とは何か」とかのメッセージを真剣に、そして簡潔な問題提起で伝えてくれるという機能面もあるが、それ以上にこの「ドミネーター」がくそかっこいいという厨二心が大きい。
男で「ドミネーター」をかっこいいと思わないやつはいないだろう。ジェンダー論なんて知らん。「ドミネーター」に憧れない男は男ではないのだ。

注釈

*1 noteではあまり学説の話をする気はないが、少しだけ議論を参照すれば、『PSYCHO-PASS』の社会は犯罪をある種の病気と捉える学説と親和的だろう。更生可能性のある犯罪者は更生施設へ、更生可能性がない犯罪者は処刑というのは、犯罪責任を道義的非難――犯罪をしないこともできたのにしたことへの責任非難ではなく「犯罪病」の治療という面から考えると分かりやすいと思われる。

*2 ドミネーターにより射殺されるという言い方も『PSYCHO-PASS』ファンの自分としてはあまりしたくなかった。
 「ドミネーターには引き金がついている。」
3期主人公の1人、慎導灼はそうやってシビュラに抗った。あくまでも射殺するのは執行官や監視官であると言いたい。

*3 *2と同様だが、真に刑法が必要でなくなった訳では無い。常守朱は常に法の重要性を説き、人々の想いや社会の歴史が法を作り、シビュラシステムもまた法によって守られるべきという正義を一貫して訴えた。
『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE』での常守朱のあの行動は、シビュラシステムによって裁けない――法律によってのみ裁ける事件を公衆の面前で行う必要があったからだ。

2.自由意思の難しい話は置いておこう

話は変わり、みなさんは今この記事を読んでいる。至極当然なその行為は自由な行為だと感じるだろうか。もはやそんなことを意識もせずただ読んでいたという方が正しいと思うが、それが全く自由ではなく過去から決まっていたことだと言われたらどう感じるだろうか。
これが自由意思の問題だ。

ここで、今回僕は自由意思について、リベットの様な実験の話がしたいわけでもなければ、デネットとカルーゾーの対話に参加したいわけでも、はたまた瀧川裕英の法哲学の議論の大風呂敷を広げたいわけでもない。それは研究者に任せた方がよほど有用である。古来より哲学の中心的な命題であるそれに僕は一切の傷もつけることはできない。
しいて言うならば、決定論――一見自由だとされるあらゆる出来事は先行する事象のみによって決定しているという説のほうが分があろうという結論だけは僕の立場として表明しておく。しかしそれでもなお決定論と自由意思が両立しえるか?という両立論の問題についてはいまだ意見を固めきれていない。

難しい話は置いといて、畢竟僕たちが自由に考え、自由に行動するという社会活動のすべては、実は全く自由ではない可能性があり、しかもその説がかなり有力だということだ。

さて、僕たちの社会活動は自分の選択の名のもとに各々が責任を負っている。罪と罰の問題も同じである。
刑法は行為に対する道義的責任――犯罪をしないこともできたのにしたことに対する責任非難で成り立っている。それは難しい議論を介さなくても直感で理解できるところだろう。

もし決定論が是であるとき、それでもなお我々は刑法による法執行を受け止めるだろうか?

もし決定論が正しいなら、犯罪をしない世界線なんて存在しないわけで、犯罪を犯してしまった人――ひいては犯罪を犯した「私」はそれでもなお刑法における責任を負うべきなのだろうか?
せざるを得なかったことに対する責任というのは、極めて理不尽に感じるものではなかろうか。
むしろ、決定論が正しいのであれば、「シビュラシステム」のような犯罪可能性を計測可能な数値として導き出してくれるものがあれば、そちらに支配を委ねる方が吉な感覚までしてくる。

もちろんここにもとても膨大で読み切れないほどの議論の蓄積があるのだが、今回それはすべて無視しよう*4。
重要なのは、どれほど論理的に自由意思が否定されたとしても、僕たちは自由意思を信じたいのではないか?ということだ。
みなさんはどうだろう。自分のすべてが過去に囚われ決定されるということに納得できるか。僕は決定論に分があることは理解しつつも、それを信じたくないという強い思いがある。

*4 実は本当に僕が議論したいのはこの命題なのだが、それは多分読者にとってはクソつまんないので、いつかの記事に譲る。どうしても難解な学説たちを大量に引っ張ってきて論じざるを得ないのだ。
いや、嘘をついた。本当に議論したいのは「ドミネーター」のかっこよさについてだ。異論は聞くだけ聞いてみよう。

3.自由意思を「信じたい」

話は戻り、みなさんは『PSYCHO-PASS』における「シビュラシステム」管理社会をディストピアだと思うか。職業選択の自由が制限され、犯罪を犯すかどうかという将来の行為すら当の本人は意識しないままに数値によって可視化され射殺の可能性まである社会である。
「ディストピアにもユートピアにも偏らない中間的な社会として描かれた」(引用:wikipedia「PSYCHO-PASS サイコパス」)らしいが、変化球的なディストピアとして描かれたという方が正しいだろう。「ディストピア」という言葉の定義をしっかり行う必要があるのは分かっているが、ここはソフトに人間的では無い支配社会とでも言おう。
かく言う僕はそれをディストピアのように観ていた。しかし、実は「シビュラシステム」管理社会はディストピアではない可能性がある。

サピエンス全史の下巻だったか、人間は虚構を信じることにより発展したという記述箇所があった。虚構というのは宗教、貨幣、さらには人権などである。
社会一般に承認された虚構の権威性は計り知れない強さを持つ。貨幣が一番わかりやすいだろう。貨幣はただの紙切れだが、それは本質ではない。本質はその虚構にのみある。
虚構を信じるという営為は、その虚構自体の正解不正解を問わず、極めて人間的な営みだと言えるだろう。

「シビュラシステム」は虚構ではないが、ある種の神話であり、社会に承認されたシステムであり、権威性を持つ。
どれだけ自由が制限されていようが、人々は「シビュラシステム」を信じ社会を運営している。
槙島は「シビュラシステム」に抗い破壊しようとするが、常守朱は「シビュラシステム」が間違っていると気づいてもなおそれが社会の安寧を保っていることを理解し、そのために「シビュラシステム」に抗えないという大きな葛藤を抱える。
客観としてディストピアの姿をしていても、内側から見れば幸せなのだ。



「自由意思」神話はまさに我々が信じてやまない虚構ではないか。自由意思の存在は法律だけでなく生活や対人コミュニケーションの隅々までそれ是であるという前提を共有するレベルでこの社会において権威性を持っている。
自由意思が間違っている――決定論が正しくその上さらに自由意思が否定されたとしても、それが社会の安寧を保っていることは紛れもなく事実なのではないか。

僕たちの価値観の一つに因果応報というものがある。これは各人が自由に行為するから成り立つものであって、決定されているとなれば、ただの神頼みの道具に成り下がる。むろんこの考えは最初から神頼みの側面もあることは否めないものの、自由意思の否定が僕たちの行動原理や価値観の根本を揺るがすことは容易に想像できる。
周知の事実だが、正しいことを言うことが「正解」とは限らない。ほとんどの「正解」はこの社会が、この社会を構成する各人間が決める。
恐らくもし決定論が是であると結論づけられたとすれば、多くの研究者は常守朱と同じ葛藤を抱えるだろう。決定論を押し進めたとき、民主主義すら維持できるか不明である。

『PSYCHO-PASS』の世界も現実の僕たちの世界も、同じように虚構を信じ安寧を保っている。しかしそれこそが人間的といえるのではないだろうか?
ディストピアとは簡単に言えば反人間的な社会を意味する。『PSYCHO-PASS』の世界も現実の僕たちの世界も等しくディストピアではないと僕は考える。

僕は自由意思の存在を信じている。そこに論理はない。もはや宗教である。しかし、それでいい。

人間讃歌は自由意思を前提にしなければ成り立たない。

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