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文脈と普遍性の話。

日々の雑感。

文脈と普遍性の話。

美術において、文脈は必要不可欠ですよね。たとえ、美しく表現されていたり、上手に描写されていたとしても、そこに、美術史の文脈との繋がりがなければ、優れた美術作品として、評価されることはありません(歴史は後付けの物語なので、美術史も、文脈も、絶対的ではなく、たまたま選択されて生き残った、美的活動の痕跡に過ぎませんが……)。

例えば、地面を掘ったら、1000年前に作られたラオコーン像が出てきたり、ミロのヴィーナスが出てきたりして「すごいお宝が出土した!」となるのは、ギリシャやローマの彫刻について、文脈上の共通した知識があるからで、その上で「すごいバージョンが出た!」という状況が生まれるのだと思います。

それが、全ての美術に共通の事象かと問われれば、現代美術はどうなんだ?という疑問が生まれます。例えば、1000年後に発見されて「すごいお宝が出た!」と思わせる現代美術作品は、美術館がしっかりと文脈を継承している作品だけです。それがなければ、デュシャンの『泉』が出土しても「あ、ここは昔、トイレだったんだ……」となりかねません(美的活動から、美が抜け落ちたら、必然的にそうなりますよね)。

つまり、現代美術のように、短いスパンの文脈もあれば、ギリシャやローマの彫刻に繋がるような長いスパンの文脈もあります。その他、本来は多様な文脈が世界中に共存しているはずですが、世界の西洋化にともない、美術界は現代美術という西洋の一元的な基準に、支配されることになりました(たまたま、そういう時代に、我々は生まれ合わせたに過ぎませんが……)。

そしてそこに、普遍性というものを加えてみると、話はややこしくなります。よくアーティストは「普遍的な作品を作りたい」と抱負を語ったりします。僕も言います。ただ、普遍性とは、地域、時代、文化を問わず、共通の理解の元にある価値なので、現代美術と基本的に相性が良くありません。100年後にも評価される作品を作ることは可能ですが、時代を問わない価値となると、100年前の時代でも、評価される可能性がないと、厳密に普遍とは言い難いと思います。

その前提に立てば、新しさがコアな価値である現代美術は、イケてる作品ほど、構造的に普遍性を持ちません(作品の残らないインスタレーションやパフォーマンス作品に、普遍性があるとすれば、概念や思想の中かもわかりませんが、鑑賞者の存在を抜きにしたこの考察に、意味があるのかどうか)。

その現代美術の文脈(刹那性)と普遍性(永遠性)を、いかに調停するかが、僕の個人的な野心の一つです。そのために僕が選んだのは歌麿です。その肝は、歌麿が非西洋、前近代のものであるにも関わらず、近代の西洋文化の文脈に組み込まれているところです(浮世絵を芸術として価値づけしたのは西洋であり、多くは西洋の美術館に所蔵されています)。

願望としては、あらゆる文脈を剥ぎ取っても、なおも魅力的な(バッハの音楽のような)作品を作りたいと思っています。僕は、あらゆる文脈を剥ぎ取っても残る価値は、やはり「美」だと思います。これは、現代美術的には、だいぶイケてないですよね……。でも、花は昆虫(受粉)のために咲いていますが、それが人間にとっても美しいのは、美の普遍性を、端的に証明しているように、思えるのですが……。

#アートの思考過程

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