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「優秀な社員ばかり」と思う自分に嫌気が差してきた

見ていない。何もよく見ていない。

「ウチの社員は皆優秀だ」なら素晴らしい。
でも、「ウチは優秀な社員ばかり」ではだめ。

ハズレを生んじゃうから。

「優秀な社員」という色眼鏡で見ると必然的に優秀でない社員が生まれ、彼らは色眼鏡フィルターにより排除される。個人の評価軸として、あるいは競合他社との比較軸として、何らかの尺度を用いて力量を測ることは必要だと思うけど、ある特定の点数を、ある人のひととなり全体をいい意味でも悪い意味でもレッテルを貼ってしまうのはまずい。

というより、そうレッテルを貼りがちな自分自身に嫌気と危機感を感じている。断じて弊社が、とか、弊社の誰々が、というわけではない。

思い返すと小学校、中学校には色んなヤツがいた。休み時間に本ばかり読むヤツも、ドッチは得意だけどかけっこはそうでもないヤツも、控えめで大人しい日常とは裏腹に書では大胆で力強いアートを生み出すヤツもいた。中には何でもできるヤツもいたけど、それでも皆がその人がパーフェクトではないことを知っていた。特定のジャンル毎にスーパースターがいて、皆なにかのメダリストだった。卒アルを見返してみても、全員のハイライトを表示できる自信がある。

それが、進学校の高校に通い始めてからそういう目を持たなくなった。替わりにアップデートされてしまったのが、期末毎に張り出される偏差値によるランキングだ。無論、私も無邪気に公表を心待ちにしていた。上位に名前が載るのはとても嬉しかった。あの当時は、例えば誰が課外活動で優れた成績を納めたことよりも遥かに、成績で上位にランクインすることの方が優秀だと、ほとんどの人が思っていたと思う。

「優秀」とは極めて都合の良いワード。まず「優れる」も「秀でる」も比較対象を持つため、響き的に制圧感を持つ。耐性がないと、「この人はどこどこのエリート校出身で非常に優秀な方だ」なんて紹介されたら、自然と謙ってしまう方が多いのが現実ではなかろうか。本当はそんな必要はないのに。別にあら捜しをしろ、というわけではないが、それでも単に圧倒される前に「よく見る」ことを心掛けたい。

「その人の何がどうすごいのか」

この世にスーパーマン、スーパーウーマンなんていない。いても、間近にはいない。「優秀」だとしても一定の領域に過ぎない。それをしっかりと理解することは、その「優秀」な人の真に「優秀な側面」を見ることであり、だからこそ、尊敬や畏敬の念を生み、正しく仕事を割り振ったり、教えを乞うたりできる。「自分はまだまだだな」という危機感と、「案外自分も悪くない」という自信をくれる。このふたつは両輪で、危機感があるから日中頑張ることができ、自信をくれるから安らかに床につくことができる。

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