「相手の長所を見る」は賞賛されるべきことなのか:ルフィの仲間

「他人の長所に目を向けましょう」

「そして、その長所を褒め、伸ばしましょう」

「それが、人間関係がうまくいく処世術です」

という文言は誰しも耳にしたことがある。それどころか、幼いころからあまりにも頻繁に聞くことから、半ば無条件で賞賛される事柄として承認を得ている感じがあるが、果たしてそうだろうか。

ぼくはこうした“空気”が息苦しい雰囲気を生んでいるような気がしてならない。

一応断っておくが「長所に目を向けること」自体は悪くない。「短所だけを見切り取り、その人を評価する」よりはずっと素晴らしい。でも、人は長所だけで成り立っているわけではない。だいたい長所と短所はスポットライトの当て方の問題、表裏一体だろう。

「長所に目を向けること」の弊害は大きく2点。相手を追い詰める危険性と自分を追い詰める危険性だ。

相手を追い詰める危険性

なんでも構わないのだが、例えば「Aさんは優しい」という長所を持っているとしよう。繰り返すが「優しい」という人柄自体は素晴らしい。だが、果たしてAさんは24時間優しいだろうか。いついかなる時、誰に対しても優しいというわけではないはずだ。「優しい」という概念が独り歩きをするとき、それは恐喝に変わる。

「えー、今日は優しくないんだね」

「誰誰ちゃんにはもっと優しいのにね」

「独り歩きをするとき」と書いたが、割と頻繁に起こるのではないだろうか。「あの人は頼んだら断れないタチだから、仕事を押し付けちゃえ」と、優しい人が不幸を見るなんてこともよく耳にする。あるいは優しいを「正直」に変えれば「正直者が馬鹿を見る」なんてことわざもあるくらいだ。相手の長所をラベルとして張替え、その相手を「その人」ではなく「そのラベル」として捉えることにより、相手をそのラベルの範疇で期待し、その勝手な期待が裏切られたと感じたとき、相手を追い詰める

自分を追い詰める危険性

“普通”という語を使用するのは若干気が引けるのだが、普通各種SNSには自分のいいところを切り取り投稿する。自分がフォローしている人のそうした投稿で埋め尽くされるタイムラインはまるでオールスターのようにきらびやかで逆説的に自分のライフとのコントラストを強調する。もはや「他人の長所に目を向けましょう」という次元ではなく、長所しかない世界≒完璧で理想の世界が2次元に存在するかのように錯覚する。

しかし、悲しいかな。人はその異常完璧な世界にほころびを見つけると、焼却しようするがごとく炎上を図る。本当は美しくも正しくも清らかでもないものが混じる世界こそぼくたちが生きる素晴らしい世界なのに。価値観だけで望ましくないものを取り除くという行為は翻って強烈な命題を突き付ける。

「自分はその完璧な世界にとって望ましいか」

息苦しくなるのは必然だろう。

「相手の短所を愛する」という心

ぼくは思う。「長所を見つけられる」という行為よりも「短所を愛される」方が人は嬉しいのではないのかと。短所さえ愛されるのだから、長所は言わずもがな。「存在の全肯定」こそ、その人の短所を長所に変え、自信と成長をもたらし、生に輝きを与える。

口で言うほど易くはないが、だからこそ、目指す価値のある生き方だと思う。

おれには、強くなんかなくたって
一緒にいて欲しい仲間がいるから・・・・・・!! 
モンキー・D・ルフィ

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