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翻訳がアート。

コロナで社会がざわついて丸2年が経ち、若干収束の兆しが見えたかに思得た矢先、年明け感染者の急増でまた自粛ムードな空気を感じる今日この頃。

しかし収束を想定していたのか、2022年は行きたい展示が目白押しで楽しみでなりません。先日その中でも楽しみだった東京都現代美術館で開催中の「クリスチャン・マークレー 翻訳するアート」に行きました。初めて作品を見たのは2011年の横浜トリエンナーレに展示されていた「The Clock」でした。映画に映り込む時計のシーンを繋ぎあわせ現実の時間を表示していく、24時間可動する作品。キャッチーなビジュアルかつその仕事量に驚きながら、フィクションの時間と現実の時間が合致し、視聴者と媒体という狭間を超えて、その「時間」を共有するという内容に興奮したことが忘れられません。

好きな作家の展覧会に胸躍りながら足を運び、しっかり興奮してきました。

カリフォルニア生まれ、ジュネーブ育ち、アメリカとスイスを行き来した作家の冒頭の文章「私は言語をあまり信用しておらず、視覚的言語や音楽など、異なる記号や認識に頼る他のタイプのコミュニケーションに興味がありました。」この一文がもはや答えに感じハッとしますが、この一文すら言語であり、「作品」を観ないと意図を理解できませんよと挨拶されてるように感じドキドキしてしまいます。

ここからは散文的な文になります。作品の解説ではなく、作品を通じ、自分は何を思い、作品を見て作家の意図を感じ、自分がどう理解しどう思って、自分は何がしたいのかを再認識するために、一つの出会いと会話として自分は作品を観ています。

マークレーは特に「音」「音楽」に注目した作品を作ります。

レコードを囓る映像、レコードを叩いたり曲げたり割ったりする映像、一見何をしている?と思うかもしれませんが、ここに「翻訳」の考え方を交えると理解できてきます。通例であれば「音楽A」の情報を「レコード」に変え、レコードプレイヤーで「再生された音楽A」を聴くのでしょう。つまりプレイヤーは翻訳の機能を持っている。そして再生を享受した側は音楽A=再生された音楽Aとして認識します。しかしその翻訳を変えてみたら?

円盤の溝に針を落とすのではなく、齧ってみたら?曲げてみたら?割ってみたら?そこにも「音」は発生しており、「音楽A」を発生させた人、「レコード」という翻訳のツールを残した人ともしかしたら意図は違えど、「再生された音楽A」と同義になると思うのです。「翻訳」とはそういう機能だと思うのです。

マークレーは「漫画」や「写真」を用いても「音」を考えます。「Boom」や「EEEEEEE」と描かれた漫画のオノマトペ。これも実際に聞こえる「音」を「文字」として、聴覚的な出来事を視覚的に翻訳して同義として私達は考えれるからです。「叫んでいる人の口の写真」も「叫んでいる人の口」の「写真」であり視覚的なはずなのに、「あー」なのか「おー」なのか「叫ぶ音」として頭の中で翻訳しています。翻訳することができるのです。

「情報A」を伝えるために翻訳し「翻訳された情報A」として受け取る。しかし翻訳とは果たして「=」の機能があるのか。そんなことまで考えさせられます。

マークレーは「サンプリング」にも注目し制作します。過去の音楽の一部を切り取り繋ぎあわせ新たな一つとして考えるその手法は今や当たり前のようでもありますが、ここにも翻訳が繋がります。複数の「一つの情報」を解体し再構築する。「情報Aの一部」+「情報Bの一部」+「情報Cの一部」は「=情報Aの一部+情報Bの一部+情報Cの一部」ではなく「新たな情報D」として翻訳される。することができる。と考えれます。それを音ではなく、物質的に、映像的に表現した作品も展示されています。

マークレーは聴覚的な出来事を視覚的、映像的、物質的、概念的に翻訳ってできないの?できるんじゃないの?と冒頭の文章の通り実験を提示し続けているように感じます。

昔、先輩の作家さんに作品は「置き換え」なんじゃないかなと言われたことが心に残っています。作者の「考え」や「気持ち」「背景」や「それらを取り巻く環境や歴史」を翻訳し、技術やアイディア、その時のあらゆる状況を駆使し「作品」として置き換える。そしてそれを鑑賞する人も「作品」を翻訳して受け取る。たかが作品にそれだけの情報が詰まってると考えると翻訳する側も様々なツールや情報を持っていないとその翻訳すらままならない。

グローバル化や情報化、SNSや切り抜きが普遍的となった今に、「情報A」を「=」として受け取る事がどれほど難しく、多角的に物事を考える「翻訳」の機能の信憑性と必要性を再認識させられる、そんな展示でした。

ですがこれもあくまで私の感想であり翻訳。各々が「作品」を体験することが作家と鑑賞者の翻訳の近道だと思います。

そしてその「意味」を探し続けてる作家にリスペクトを送ります。

このご時世で「翻訳」ということについて考えて、映画の「ターミナル」を思い出しまいました。

この映画では、ニューヨークに向かう、クラコウジアという架空の国の主人公が国のクーデターによりパスポートが無効になり、アメリカの空港ターミナルから出ることができなくなるという話ですが、物語は主に「言語」が通じない事でドタバタ劇するのですが、主人公はありとあらゆる手段で言語を翻訳し、仕事を生み出し、仲間を集め、困難を突破していくのですが、ここでも「言語」を超えたり、「翻訳」の妙を使った共通認識がたくさん出てきます。

ターミナルで出会ったヒロインとの会話の中の、歴史を書き換えましょう。というセリフも、歴史の翻訳も自分達次第、今の状況もそう。という比喩として感じます。主人公がヒロインに愛を伝えるために言葉ではなくナポレオンの贈り物を再現する主人公の行動も、気持ちの置き換え、翻訳だと思うのです。

そして主人公がなぜそこまでして困難に立ち向かったかの理由に「JAZZ」。「音楽」が出てきます。これだけ言語やお互いの環境や状況を理解するのに困難が発生していても「音楽」はそのボーダーを飛び越えていた。と象徴するように扱われるのです。とっても楽しいコメディだけどシニカルで大好きな映画。この架空の国の言語をトムハンクスはアドリブでやっていたとか、本当に誰もその言語を訳せないという所もイカした裏話です🐐🐐🐐

なんだか伊坂幸太郎さんの「死神の精度」が読みたくなってきました。(なぜかは未読の方は読んでみて欲しい)

どれだけ自分たちは物事を翻訳しあって、できなくて、勘違いしながら生きてるのでしょうか。環境という単位をどの目線で、どの位置で見て、翻訳しようとするだけでも、無限大になってしまいます。その機微やもどかしさすら、楽しく過ごす糧にしたいです。こんなに口数が多い自分が絵を描くのもそういう理由なんでしょうか。また自分は自問自答しながら、自画像を描こうと思います。




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