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【創作短編小説】 姉妹

 嵐の前の晴れが好きだ。晴れが尊いものに思えるから。そのうち雨が降ると分かっているからこそ、その一時の晴れが愛おしく思えるから。
 私は新幹線の車窓を覗く。隣に座る姉の沙知は両耳にイヤホンを差し込んだまま体を斜めにして眠っている。沙知にとって移動時間は単なる睡眠時間であると何遍も聞かされている。私は移動時間にこそ旅の余韻の正体が潜んでいると信じてやまない。まして、この晴れ模様。
「まもなく東京。東京に到着いたします」
 私は折り畳みのテーブルを畳み、沙知を起こす。
「お姉ちゃん。もう着くよ」
 沙知はぐっと上に伸びをして、顔にかかった茶の前髪を手でよける。沙知の肩まである茶髪は一昨日染め直したばかりで、とてもきらきらしている。私は心底羨ましい。
「本当にあっという間だね。まったくこの前の夜行バスが嘘みたい」
 沙知は大学二年生で、先日のゼミ合宿で金沢に行った。行きは新幹線で、帰路の新宿のバスターミナルまでの夜通しのバスは散々だったらしい。ゼミ合宿とは一体何なのか、高校生の私にはさっぱり見当もつかないけど、沙知は、移動時間を除けば最高の思い出になったわ、とスーツケースを片付けながら言っていた。
「あーあ。駅直結の家だったら楽ちんなのに」
 沙知は、八つ橋のお土産袋を右手にぶら下げながら新幹線を降りる。私も後ろに続いて降りる。平日でもたくさんの人が新幹線から吐き出されていく。スーツを着たサラリーマン、大学生くらいのカップル、おじさんと若い女の二人組と様々だが、皆心なしか少々疲れ顔をしている。
 
 私たちは新幹線の改札を抜け、そのまま中央線のホームに向かう。ニューデイズで私はキウイスムージー、沙知はカフェラテを買い、電車に乗り込む。ぽつぽつと座席が空いていたが、二人分まとめて空いている箇所は見当たらなかったので、私たちは特に何も言わずにばらばらの位置に座った。程なくして斜め向かいに、眠る沙知の顔が見えた。四十分ほどで武蔵小金井駅に着いた。沙知をゆすり起こして、電車を出る。
 
 すっかり都心の喧騒は失せ、まだらな人波に乗りながら私たちは駅前の一本道を進む。八つ目の角を右に曲がり、約三十二歩歩いて、左手が我が家だ。歩数は、私が一か月間集計した数値の平均値をとっている。昔から、測量なるものが好きなのだ。
 昼下がりの家からは、ドアを開けると木材の香りがぬるい温度を纏って、屋外に溢れるようにするりと流れる。誰も家にはいないと分かる。
「あー、脚ぱんぱん。シャワー先浴びてもいい?」
沙知が尋ねるので私は、うん、と頷いた。
 沙知がシャワーを済ませると、私も続いてシャワーを浴びた。
「真っ昼間に浴びるシャワーはなんて気持ちいいの」
 沙知は真っ白なバスタオルでご自慢の髪をこすりながら言った。
「なんか、お姉ちゃんの髪の毛の色、抜けた?」
「え、やっぱりそう思う?やだなあ、もう落ちちゃうのか」
 沙知はソファに腰掛けて、手鏡越しに何度も髪に指を通しながら毛色を確認する。私はその隣に座る。
「私もはやく大学生になって染めてみたいな」
「先月、染めるチャンスならいくらでもあったでしょう」
 沙知の言う先月とは、八月の事を指していてつまるところ高校生の最後の夏休みの事だ。大学という場所は九月も丸々休みと初めて知った時は驚いた。
「課外授業がお盆の直前と直後にあったからまた染め直さなくちゃいけなくて、さすがにお金がもったいないよ」
「自分で染めれば安く済むし、高校生はそれで十分よ、はっきり言って」
 沙知は『髪の毛色落ちショック』のオーラを残しつつ、依然毛先を眺めながら言った。
「それにしても、京都、楽しかったね」
 私が言う。
「うん、とっても楽しかった」
 沙知が言う。
「伏見稲荷は外国人がたくさんいて香水のにおいもたくさんしたね」
 私がそう言うと沙知は、
「祇園の花見小路を歩く舞妓さんはとびきり美人だった」
 と言い、また私は続けて、
「錦市場にいた若いカップルが微笑ましかったね」
 と言った。そして、ふふふと沙知は笑ってから言った。
「嵐山で乗った人力車のお兄さん、かっこよかった」
 私は沙知の言葉に思わず、
「私たち、人間観察しかしてなかったね」
 と返した。二人そろって顔を合わせ、ふふふと笑った。
「ねえ、私たちって近頃変わっちゃったのかな?」
 私がそう訊くと沙知は、
「そうなのかも、しれないね」
 と、神妙な顔で言った。けれどもすぐにさっきの笑顔になって、
「人間なんて、いろんな人がいるもの。京都もここも、場所は違えど人はだいたいおんなじようないろんな顔をしてた」
 と、けらけら笑った。
「お母さん、再婚、するのかな、ほんとうに」
 私がそう尋ねると、沙知は急にどうでもよさそうにして、
「するんじゃあない」
 と吐き捨てた。
「お姉ちゃんって、好きな人はいるの?」
「内緒」
「なんで?」
「自分の身の周りの恋が慌ただしいから、自分の事まで他の人に話していたらますます疲れちゃう」
 沙知はそうして、喉が渇いたと言いながら冷蔵庫に向かって行ってしまう。
「大学って楽しい?」
 台所で麦茶を注ぐ沙知に私は訊いてみる。
「それなりに。いろんな人がいて、それなりに楽しい」
「それなりの楽しさのために今、私は頑張って受験勉強をしているの?」
 私は、一週間前に返却された統一模試の結果のCのアルファベットの形を思い浮かべながら訊いた。
「まあ、そのくらいの気持ちで勉強していればすんなり受かるものよ」
 まったく理不尽な先人の助言である。
「受験に、親に、課題が山積みで困るよ」
私がそう言うと、沙知は、
「髪の毛のこともね」
 と付け加えた。「たしかに」と私は姉に微笑んでみせた。
「どうせ、死んだら親や受験の悩みも、京都の思い出も、すべてなくなっちゃうのって酷だよね」
 沙知は、冷蔵庫の戸を閉めて言う。
「そうだね。だからこそ私も早く髪を染めて、ピアスも開けて、ゼミ合宿にも行かなくちゃ、だね」
 私はそう言い、近くにあったリモコンでテレビの電源を入れる。
「はいはい。そうしたら明日からは、また気を取り直して、学校を頑張ってね。ズル休みは今日までで終わり」
 沙知は麦茶を飲み干し、スーツケースを担いで二階へ上がっていってしまった。
 母はもうじき家に帰ってくるだろう。
 テレビからは、京都への大型台風の接近を知らせるニュースがひっきりなしに流れている。
 
 

 ー2019年9月  
  
 たしか、この話を書いた年は弟が受験生でした。受験生から見た大学生ってきっと呑気に見えるのだろうな。そんなことも考えながら書いた話です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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