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ぼくらをのせて旅し続けるオーロラアーク号~BUMP OF CHICKENと一緒に描く未来へのプレゼント~

※2020年11月13日に掲載された音楽文です。いろいろ訂正したい箇所はあるにせよ、あえてそのまま転載します。

1年前、乗船できなかったオーロラの方舟・aurora ark号に、ついに私も乗れる日がやって来た。この日をずっと待ち焦がれていた。

《さあ でかけよう ひときれのパン ナイフ ランプ かばんにつめこんで》

『天空の城ラピュタ』の主題歌「君をのせて」の気分で、私の場合は“1冊の『ROCKIN’ON JAPAN』(表紙BUMP OF CHICKEN 2020年11月号)と新曲「Gravity」&「アカシア」のCD、それからDVD『BUMP OF CHICKEN TOUR 2019 aurora ark TOKYO DOME』”をかばんにつめこんで、弧を描くオーロラ・aurora arc観測ひとり旅に出発した。本当にそれら三種の神器を大切にかばんにつめて出かけた。ネット購入していたCD、DVDは受け取りやすい実家へ発送してもらっており、落ち着いて鑑賞するために、借りている部屋へ戻ることにした。

まずは車を運転しながら、付属していたLive Album CDを聞いてみた。当然オーディエンスの歓声も含まれており、十分ライブ感が伝わって、この1枚だけでも、壮大なドームの光景、華やかで煌めく演出が脳内に広がった。

《虹を呼ぶ雨の下 皆同じ雨の下 うまく手は繋げない それでも笑う 同じ虹を待っている》

CDは二巡目に突入、「虹を待つ人」を聞いている時、夕空に虹が現れた。太陽と同じ方向に縦に短く伸びる虹。後で調べたら虹ではなく、幻日という現象だったけれど、虹色の光が幸運のしるしのような気がして、幸先の良い旅の始まりに胸が高鳴った。

《あの輝きを 君に会えたから見えた あの輝きを 確かめにいこう》「アカシア」

「アカシア」と「Gravity」の話を交えながら、オーロラアーク旅物語の記録を音楽文に残すことにした。

「アカシア」を初めて聞いた頃、楽曲から日中の太陽がキラキラ輝く光を感じられて、このコロナ禍における暗い現状を打破してくれるような前向きなポジティブソングだなと大好きになって何度も繰り返し聞いていた。でもそれは少し捉え方が違っていた。曲を聞いた後に藤原基央のインタビュー(※以後『ROCKIN’ON JAPAN』2020年11月号参照)を読むと、コロナ禍になる前のaurora arkツアーが終わって間もない頃、藤原基央がライブで得た感動した気持ちがそのまま「アカシア」の歌詞やメロディに反映されていると知り、ますます好きな曲になった。

インタビューの中で藤原基央は楽曲制作に関して“絵の具”という例えを交えて説明することが多かった。

《日常の中で体験してきた出来事とか経験してきた感情とか、そこから得てきたものを絵の具のように組み合わせていって、日常の経験とかによって絵の具の種類が増えていくようなもんだと思ってほしいんですけど。いろんなものを混ぜてって、言葉に表せない、だけど表す必要のある、世に出る必要のあるものを作り出すっていうのが、僕にとっての作詞作曲で。》(P.60)

「新世界」を1例に挙げて、自分が楽曲の中で描く世界は日記に書くようなプライベートな出来事と関連付けて歌ったと断定されたくはないと。これはまさに絵画の世界に通じる。具象絵画だとどうしても捉え方が固定化されがちだけど、抽象絵画だと見る人によって自在に捉え方を変えることができる。見る人のその時の気持ち次第で捉え方は変わるし、見る側の数と同じだけ膨大な捉え方ができる。無限に解釈を変えられる。つまりバンプの楽曲が抽象絵画、その通りなのである。

一度、よく噛み砕いて食したはずのバンプの楽曲の味が後からもう一度食べてみると味が変わっているということがしばしばある。あれ?こういう味だったっけ?と不思議な気分になる。でも変わってしまった味も嫌いじゃない。その時々で一番自分が求めている味に変わってくれるから、ありがたい。何度でも食べたくなる。

それは「Gravity」でも起きた現象だった。勢いのある「アカシア」と比べたら、「Gravity」は立ち止まりながらゆっくり歩くようなテンポの楽曲で、「アカシア」=昼間の太陽なら、《帰り道》、《夕方のサイレン》、《蝙蝠》という言葉も含まれる「Gravity」=日が陰る薄暗い曲だと感じた。でもライブ映像を見た後に改めて「Gravity」を聞き直してみたら、「アカシア」ほどの眩しい輝きはなくとも、《暗闇を照らす様な 微かな光》「天体観測」を感じることができたのだ。なぜなら、1年前の東京ドームライブが映像化された今、それぞれのバンプリスナーの手に渡った今この瞬間、場所は離れていても、似た気持ちで、同じライブを、同じ眼差しで見つめている人たちがたくさんいるだろうということを「Gravity」という楽曲から想像できて、幸せな気持ちが芽生えたからだ。

《一緒じゃなくても 一人だったとしても また明日の中に 君がいますように》「Gravity」

誰かと一緒にいられる時間なんて限られていて、ましてライブなんてそれほど頻繁にあるわけでもないし、同じライブに参戦した人たちと同じ時間を共有できるのって基本的にライブ当日しかない。ひとりでバンプの楽曲と向き合う時間の方が圧倒的に多くて、ファン同士顔を合わせる機会は少ないだろう。でもライブ映像を収録したDVDやBlu-rayがリリースされたおかげで、実際はひとりで鑑賞していても、遠隔地であるいは案外ご近所、隣の部屋で同じ映像を見ている人がいるかもしれないと思えば、孤独ではなくて、一緒にオーロラアークを探している気分にもなれて、なんだかとても温かい気持ちになれたのだ。それは「Gravity」という楽曲が初見とは違った味を持った瞬間であり、自分の中で第一印象よりもさらに好きな楽曲に変化した瞬間だった。時間を置くとまた違う味が出るってバンプの楽曲はまるで缶詰みたいだなと。スルメ曲と表現されることが多いが、個人的には時間が経つとおいしくなると言われる缶詰曲と表現したい。(方舟の長い旅の保存食に適しているし。)

旨味が凝縮された缶詰みたいな味の変化する楽曲を作ることのできる藤原基央だが、彼自身、自分で作った過去の曲に救われたという体験をしたこともインタビュー内で語られていた。aurora arkツアーの頃、大切な人が命に関わるような状態で不安からリハーサルも地に足がついていなかった時があったという。でも自身が作った楽曲が自分を助けに来てくれて、我を取り戻すことができたという体験談を読んだ時、藤原基央が作る楽曲には作り手本人もまだまだ気付いていないような底知れぬパワーを持っているんだなと畏怖の念さえ抱いた。

東京ドームライブにおけるMC部分で、藤原基央は「魔法みたいな夜だった。おまえら今日さ、いっぱい歌ったじゃん。おまえが歌った歌声っていうのはさ、時間と距離を飛び越えて、未来のおまえ自身に向かっていくんだと思うよ。未来は何があるか分かんないじゃん。今日平気かもしんないけど、明日平気でも、1年後、10年後、20年後、もうつらい、しんどい、立ち上がれるんだろうか、生きていけるんだろうか、そうやって思う時が来るかもしんない。そういう時に力になれるように、今日おまえが歌った唄っていうのは未来のおまえに向かって旅立ってんだと思うよ。おまえが大ピンチの時、今日歌ったおまえの唄を思い出せないかもしんない。忘れてるかもしんない。そん時はね、オレが歌って、オレたちの音を出して、おまえあん時、あんなに心込めて、いい声で、生きてる証拠を歌ってたじゃねーかよと思い出す手伝いをするよ。手伝いをするためにオレの唄は、オレたちの音楽はあんのかもしんない。これから先、おまえの未来がどんなものであろうと、どこにいようと、オレの唄はオレたちの音楽はおまえのこと絶対ひとりにしないから。勝手におまえの側にいるから。」と力強くやさしく語りかけてくれていた。インタビューを読んだ後にライブを見たせいもあるかもしれないが、これはリスナーへ語りかけているだけでなく、楽曲に救われる体験をした藤原基央が自分自身にも伝えたいことだったのかもしれない。

このMCはまるで預言みたいでもあって、この時はまさかコロナ禍が起きて、ライブが開催されにくい状況になるとは誰も考えもしなかっただろう。藤原基央の言葉はコロナ禍の今だからこそ、より心に響く。魔法みたいなライブの夜から1年後、誰が本当にこれほど大ピンチな世界になると考えただろうか。ライブができない日々が続き、無観客配信ライブが当たり前となり、バンプが東京ドームでライブをしてちょうど1年後の2020年11月3日、THE YELLOW MONKEYがコロナ禍後、初となる東京ドームで収容動員数を抑えた有観客ライブを開催した記念日になるとは、あまりにも感慨深い。未来がどんなものだろうと、コロナ禍だろうと音楽が私たちをひとりにはしないと言ってくれた藤原基央は本当に預言者のようだ。実際、「Gravity」と「アカシア」という楽曲から勇気をもらったし、まだまだライブが開催されにくい現状で、音楽好きが窮屈な思いをしているこのタイミングで、去年のaurora ark東京ドーム公演をこうして自宅で体験できて、楽しませてもらっている。部屋の中でひとりで鑑賞していれば、いくらでも一緒に歌うことができる。運良く有観客ライブが開催されても、会場ではマスク必須、声を発することもできないのが現状だ。だから自宅で気兼ねなく楽しめるライブ映像リリースは例年以上にうれしく感じるのである。

aurora arkツアーの話になるが、藤原基央が自分の楽曲に救われて集中できるようになったとは言え、100%不安を拭えたわけでもないのに、心配事を抱え込んだ中、そんな素振りは少しも見せずにツアーを完走してくれたことには本当に感謝の気持ちしかない。当初つらい精神状態で駆け出したライブだったからこそ、奇跡の魔法みたいな“オーロラアーク”という概念が完成したのだと思う。もちろん心配事はないに越したことはない。でも何か自分の力ではどうにも及ばないことが起こってしまった時、それでもその不安を乗り越えて、取り組んだことは、何も不安要素がない平穏な気持ちで取り組んだ時よりも、自身にも他者にも伝わる共振が大きくなる気がする。

なぜあのライブは多くの人たちの心にいまだに響いているのだろうかと改めて考えてみると、《中二病って言ってくれていいし、メンヘラって言ってくれていいからね。》(P.64)と藤原基央が言っていたどうしようもない精神的ピンチを乗り越えて実現したツアーだからこそ、1年経ってもまだ余韻が残っているんだと思った。

《明日があたりまえのように来るとは限らない、と。それを本気で思うことができるっていうのは、人生の中でなかなかないと思うんですよ。僕はそれを本気で思ってしまったので。それがツアーの出だしからあったんで。》

(P.65)と語っていたように、ライブができる奇跡の重みのようなものを自身が感じて、それが藤原基央の歌声やバンプの音楽に知らず知らずのうちに反映されたからこそ、あのライブで掴んだ観客の手応えは半端ないものになったのだろうと思う。それがあの時、リアルタイムで感じ取れたものだけではなく、今回リリースされたライブ映像からも感じ取ることができる。実はたいへんな状態で臨んでいた藤原基央が奏でた音楽から伝わるものがいまだに確かにある。残念ながら、私はその奇跡みたいなツアーに参戦できなかった。でも1年遅れでやっと参戦できた気分になれた。

《ゴールはきっとまだだけど もう死ぬまでいたい場所にいる 隣で (隣で) 君の側で 魂がここだよって叫ぶ 泣いたり笑ったりする時 君の命が揺れる時 誰より (近くで) 特等席で 僕も同じように 息をしていたい》

「アカシア」において藤原基央が紡ぐ言葉の力がますます増しているように感じた。《死ぬまで》とか《魂》、《命が揺れる時》とか。これまで以上に歌詞に力強さを感じた。きっとこれはこのコロナ禍の下、私たちリスナーを励ましてくれる意味で描いてくれた世界だろうと勝手に解釈していたけれど、そうではなく、あのツアーで出会った命とか、一緒に歌えた意味とか、バンプと観客が一体化できた時間があった事実とか全部をひっくるめて、実はツアーの総括をしてくれたような楽曲であることを知り、改めてバンプの楽曲はいろんな捉え方ができる万能音楽だと気付いた。

そもそも「アカシア」はポケモンのゲームのMVに起用されていて、私はポケモンをほとんど知らないが、ポケモンの世界ってきっとこんな感じだろうなとアニメ映像が頭の中にちゃんと浮かんだ。そして次にコロナ禍で元気のない世界を励ますような歌詞だと思えた。それから実はツアーの熱量を丸ごと込めた楽曲であると知った。
これほどたった数分のひとつの音楽が、たくさんの世界線を描いてくれることってあるだろうか。どの世界も「アカシア」というひとつの楽曲の中でしっくり納まるし、まだこれから描ける世界もこの楽曲の中には潜んでいると思う。楽曲を通して聞き手が新しい世界を発見できるというか、発掘できて、それをリスナー同士で共有できる気がする。

藤原基央は意図していなくても、偶然、藤原基央がaurora arkツアーの最中や終わった後に感じた、今の日常が当たり前とは限らない、1日1日のライブがかけがえのないもの、尊いものに思えたことは、突如、世界がコロナ禍に陥った今年だからこそ、より一層重みを増した気もする。

《真っ暗闇が怖い時は 怖さを比べ ふざけながらいこう 太陽がなくたって歩ける 君と照らす世界が見える》「アカシア」
《雨でも晴れでも 空のない世界でも また明日 明日が ちゃんときますように》「Gravity」

これらの部分なんて今の世界に生きるすべての人たちに伝えたいと思える。そしてあの太陽みたいに輝くツアーは終わってしまったけれど、でも本当の意味では終わってなくて、続きがあってこれからも唄にしていくというようなことを藤原基央が言ってくれているように、今はまだ以前と同じようなライブは実現できず、空さえない世界で暗闇に怯えているような状況だけれど、こうして本当に“オーロラアーク”が終わっていないことを証明してくれたように続きみたいな唄をリリースしてくれて、生でバンプに会えなくても、バンプの2つの新曲によってリスナーそれぞれの世界に光が戻ってきたと希望を感じた。

「アカシア」は聞けば聞くほどメロディでライブ感を表現していると思う。一緒に楽しめる仕掛けが詰め込まれている。「天体観測」で一躍有名になった“オーイェーアハン”というかけ声が繰り返され、“フゥフゥ”という声でリズムが刻まれているし、藤原基央がひとりで歌うというより、ライブでオーディエンスに歌わせる、一緒に歌うことを前提に作ってくれたような楽曲でもあるから、その仕掛けからも愛を感じた。

オーロラアークの集大成とも言える楽曲だが、“絵の具”の話に戻って、このキラキラでカラフルなオーロラアークの思い出を全部交えて完成させた一枚の壮大な壁画みたいな「アカシア」という楽曲は藤原基央が作った音楽ではあるものの、その楽曲の中には私たちリスナーの思いも汲んでくれているし、そんなリスナーから受け取った藤原基央の思いも込められていて、つまり藤原基央が持っていた絵の具だけじゃなくて、私たちが持っている違う色の絵の具も付け足してくれて、新しい色を作ってくれて、制作にまるでリスナーも一緒に参加した気分に浸れる楽曲ではないかなと考えた。

現実の絵の具は種類が限られていて、出せる色合いも厳密には限度があるだろう。けれど、藤原基央や私たちが持っている音楽上で使える音の絵の具には限りがなくて、でもひとりひとりが持っている絵の具には限りがあって、誰かの絵の具と自分の絵の具の色を混ぜ合わせることによって、無限の色味、音楽が生まれるのだと思う。

つまりバンプの音楽が常々進化していると感じていた理由をやっと突き止めることができた。藤原基央はリスナーが一緒に奏でる音や色をちゃんと受け取ってくれて、それを楽曲に反映させてくれているから、年々バンプの楽曲に輝きが増しているのではないかと。元々画家的な藤原基央の音楽を聞くと絵画が想像できた。でも初期はモノクロで平面的なイメージがあった。ライブの回数が増えれば増えるほど、リスナーとバンプの絆が深まれば深まるほど、バンプの音楽に違った差し色が加わって、どんどんカラフルに進化して、色を通り越して、近年は光にさえ見えてしまうような、立体的で奥行きのある絵画のような音楽が完成するようになったのである。

《透明よりも綺麗な あの輝きを確かめにいこう》「アカシア」

何の穢れも汚れもない透明が一番美しいと思ってしまうけれど、それよりも美しいものがあるとバンプの楽曲から気付かされた。それはメンバーと私たちが持つ絵の具で描かれた絵画の中の光。その光のような音楽の煌めき。

もしかしたら腹黒い誰かが持っている絵の具の色は黒すぎて、一見光輝く絵画に必要ないと排除されてしまうかもしれない。寂しい人が持つ色や、卑怯者が持つ色も美しい絵画を描こうとしたら、いらないと判断される場合もあるかもしれない。けれど藤原基央はどんな人の絵の具も受け取ってくれて、使ってくれる。そういう決して綺麗ではない色も藤原基央の魔法で一枚の絵画のような音楽の中にちゃんと馴染んで、輝きを放つ。何の穢れもない透明よりも、寂しさ、悔しさ、傷付く気持ちがあってこそ、輝く音楽が生まれるのだ。

「アカシア」はaurora arkツアーの頃に密かに抱えていた藤原基央の不安や心配も、それから別にそれほどファンじゃなくても付き合いでなんとなくライブに参戦したような人の気持ちも、私みたいに行きたくても行けなかったリスナーのもどかしい気持ちも、参戦できてうれしい、幸せみたいなポジティブな思いも全部考慮して、ひとりひとりの思いを受け止めて作られたような特別な思いが込められた楽曲だと私は思う。

来年、BUMP OF CHICKENは25周年を迎える。人間が25歳ならいろいろあって当然で、活動が長くなった分、時には《冷たい雨に濡れる時》「アカシア」もあるかもしれない。でもいつだってバンプはリスナーのことを第一に考えてくれて、大切にしてくれる。ツアーが終わっても、続きみたいな楽曲を届けてくれて、醒めない夢、解けない魔法を見させてくれる。リスナーという《君》から与えられる気持ちを原動力にして、《僕》というまるで人格を持っているような音楽が生まれる。その音楽は進化し続けて、ついには作詞作曲している本人の心まで癒すようになった。つまり藤原基央が作る音楽にリスナーの思いが反映されているとすれば、藤原基央や他のバンプメンバーが疲れてしまった時、私たちもバンプの音楽を通してメンバーを救うのに一役買っているということになるだろう。ずっとリスナーだけがバンプの音楽に救われているものと勘違いしていた。苦しい時、つらい時、一方的に助けてもらってばかりだと思っていた。でもどうやらBUMP OF CHICKENというロックバンドとそのリスナーが魂を込めて共作した絵画のような音楽はリスナー以外の作り手の心も救う作用があるらしい。

“オーロラアーク”という名の果てしない宇宙のような壁画は実はまだ完成していなくて、「アカシア」、「Gravity」さえまだ分岐点で、絵画には続きがきっとあるだろう。

《どんな最後が待っていようと もう離せない手を繋いだよ 隣で (隣で)
 君の側で 魂がここがいいと叫ぶ そして理由が光る時 僕らを理由が抱きしめる時 誰より (近くで) 特等席で 僕の見た君を 君に伝えたい》「アカシア」

藤原基央を始めとするメンバーが私たちリスナーと手を繋いでくれているなら、こちらだって決して離さない。たとえ手が繋がっていなくても、バンプの音楽さえあれば心は常に繋がっている。私の魂だって、バンプの音楽を聞き続けたい、バンプの側にいたいって叫んでいる。これからも藤原基央が扱う音符の一部、絵画の一色でありたいと願う。去年まで当たり前だったaurora arkのようなライブツアーをいつになったら安心して開催できるか、世界情勢的に依然として不明だけれど、でも、バンプが新曲を制作し続けてくれる限り、私たちも自分たちの心の色を提供できる。一緒に壁画を描き続けることができる。そしていつか完成したら、特等席で眺めたい。2万年前に描かれたラスコー洞窟の壁画みたいに、後世に残したいバンプの音楽が聞こえる“オーロラアーク”というまだ完成途中の名画を。

aurora arcを探してaurora ark号に乗船した私は、オーロラアークはまだ未完結作品という事実を知ったので、まだこの方舟から降りないことにした。この先の未来、コロナ禍以上の試練が待ち構えていようとも、『BUMP OF CHICKEN TOUR 2019 aurora ark TOKYO DOME』のDVDだけでなく、付属していた映画パンフみたいな歌詞ブックやツアーパンフみたいなフォトブック(栞にもなりそうなステッカー付き)などは私たちの道標となる地図になるだろう。バンプの楽曲は私たちが向かうべき必要な方角を示してくれるコンパスになる。藤原基央が船長を務め、増川弘明、升秀夫、直井由文がクルーの方舟・aurora ark号は

《選んできた道のりの 正しさを 祈った》
《間違った 旅路の果てに 正しさを 祈りながら 再会を 祈りながら》「ロストマン」

果てない航海を続けている。藤原基央は密かに飛行石を持っていそうだから、この方舟はきっと空を旅することもできるだろう。地球の大気圏を飛び越えて、宇宙だって旅できるかもしれない。

乗船した当初は、aurora arcを探したい、去年のaurora arkの奇跡を眺めたいと受け身の姿勢だった。でもライブ映像や藤原基央の言葉から、まだ未完成のオーロラアークは探すものでも、眺めるものでもなく、自分たちで描いて、自分たちで作り上げるものだと教えられた。まだ完成していないなら、私も参加できるのではないか、この感動を書き残せばオーロラアークの一部になれるのではないかと気付き、こうして綴り続けている。

aurora arkツアーは単にアルバム『aurora arc』を引っ提げたライブではなく、東京ドーム公演を見た限りでは、「ガラスのブルース」、「天体観測」、「車輪の唄」など過去の楽曲もセットリストに多く含まれており、BUMP OF CHICKENの歴史の長さも感じられた。手作りの地図を頼りに乗客を増やしながら、嵐に遭遇しても決して旅を諦めなかった20年以上に及ぶ音楽海の航海ドキュメントだった。『BUMP OF CHICKEN TOUR 2019 aurora ark TOKYO DOME』のすべてからバンプ長編映画を鑑賞した感覚を覚えた。「Aurora」が流れるエンドロールなんて大作ドキュメンタリー映画さながらだった。

《地球はまわる 君をのせて いつかきっと出会う ぼくらをのせて》「君をのせて」

船長とクルーの熱い想いと、観客のまなざしが刻まれた、去年のなつかしい東京ドームライブは何が起きるか分からない未来への最高のプレゼントになった。必要になった時に見返すとバンプの楽曲がそうであるように、その時必要な救いをもたらしてくれるタイムカプセルの役目も果たすだろう。

こうして一通りオーロラアークを堪能し尽くした朝、幻日ではなく、キレイに弧を描いた本物の虹をみつけた。

ぼくらをのせた方舟の物語、“オーロラアーク”は船長とクルーが先導してくれる限り、彼らの音楽を必要とする乗客がいる限り、一緒に作るべき音楽が残っている限り、終わることなく、新たな出会いを求めて、きっとまわり続ける。

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