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「おかえりモネ」シンポジウムin登米~一木正恵氏の講演を聞いて「モネ学」を体験したこと~

12月19日、登米市長沼ボートクラブハウス(サヤカさんが建てた米麻の複合施設=つまりモネの職場や菅波先生の病院、カフェの外観に使われた場所)にて開催された「~森に生きる~『おかえりモネ』が描いた登米」というシンポジウムに参加した。
何しろ講師としてモネのチーフ演出・NHKの一木正恵さんが来るというから是非とも拝聴したいとすぐに申し込んだ。
モネのガイドブックやNHKのサイト等で一木さんの言葉はずっと追いかけていた。文章だけでイメージすると、きっと仕事に対して真剣で、熱意をもって取り組んでいる真面目で思慮深い人なんだろうと少し構えてしまっていた。

一木さんが登場する前、初めてクラブハウスの入り口に足を踏み入れると、登場人物たちが一同に並んだパネルと登米のゆるキャラ・はっとンと、ドラマのサントラに出迎えられた。会場内にはモネが最初に作り、重いということでボツになった木製の学童机と椅子やジャズ喫茶を営むトムさんのためにモネが作ったテーブルなども置かれていて、写真を撮ることもできた。傘イルカ、コサメちゃんのパペット、やっぺぇ、ホヤぼーや、サントラCD、関連本なども組手什を使った棚にかわいくレイアウトされていた。

公演が始まるまではサントラだった音楽が、開始直前になるとBUMPの「なないろ」に変わり、その曲に合わせて一木さんが颯爽と登場した。まるでBUMPのライブでも始まるような高揚感があった。
副市長の挨拶(モネのレガシーとして、登米の全国知名度がアップしたこと、林業水産業に光明が差したこと、ふるさと納税3倍アップしたことなど)の後、いよいよ一木さんの公演・「おかえりモネ」が伝えたかったこと が始まった。真面目そうな人に見えるし、お堅い話になるのかなと思いきや、すぐに軽妙なトークが繰り広げられ、一気に心を掴まれた。

イメージ的には生徒に人気のある大学教授という感じ。公演中は撮影禁止のため、もちろん動画撮影、録音はできない。大学の授業のごとく、私は必死に一木さんが発する一言一言をメモし続けていた。一木ゼミの生徒になったつもりで、一木先生の講話を真剣に聞いていた。
想像以上に熱い方で、いくらでも何でもざっくばらんに話して下さる方で、つまり前半は一つのテーマに対して、かなり熱弁して下さっていたこともあって、残り時間が少なくなってしまい、後半は前半以上に饒舌に話すスピードも加速し、授業時間が足りなくなって、駆け足になる教授とほんとによく似ていて、まさに大学の講義という感じだった。先生が話すスピードにノートが追いつかない状態で、学生時代を思い出し、懐かしくもなっていた。

そのノートに走り書きした内容を見ながら、これから一木先生の講話に関するレポートをまとめてみようと思う。(提出する場もないので、noteに残すことにしました。※12/24 一部加筆修正しました。)
モネとは何だったのかと深く考察して下さった。
まず、震災のことを東北で描くのは決まっていて、メインロケ地をどこにしようかとあちこち見て回ったという。ドラマの象徴的な場所選びは本当に大切でたいへんらしい。
その中で「登米」をみつけて、登米が気になって、いろいろ見て回ったと。どこにしようかロケ地探しをしていた時期はちょうど登米市長沼でボートのオリンピック会場誘致や最終的にはボートのポーランド合宿所に選ばれたりして、そういうオリンピックとの兼ね合いは大丈夫なのかとスタッフは少し悩んだらしい。
(個人的には長沼がオリンピック本番で使用される会場から落選して、今となれば良かったかもしれないと思った。もしも会場に選ばれてしまっていたら、モネの撮影は難しかったかもしれないから…。)

その問題は乗り越えて、モネがスタートする場は「登米」に決定。登米は知名度が低く、何があるかなんて住んでいる住人でさえも分からない。登米にロケに使える場所なんてあるかなと思ってしまう。何も誇れるようなものはなく、何もない田舎=登米というイメージだった。(登米市住人として多くの人がそう感じていたと思う。)
しかし、一木さん方は違った。市民としては何もなく見える場所だけど、山や川、ハスの花など自然が豊富で、とても魅力的な町に映ったらしい。登米と言っても広くて、なんとか登米市の魅力を凝縮したドラマを作ろうと、いろいろ考えてくれた結果、あのようなまるで登米のプロモーション映像のような「おかえりモネ」の前半(第8週まで)が完成した。

ちなみに一木さんは東北ゆかりのドラマを数多く手がけており、「どんど晴れ」のSPを撮ろうと2011年3月11日からそのロケを開始する予定だったが、ロケ初日に震災が起き、当然予定通りの撮影ができなくなってしまったという。先に岩手入りしていたスタッフたちは三ヶ月間、その場でボランティア活動をしていたという。一木さんはまだ東京にいて、もしもあの日、岩手入りしていたら、また人生は変わったかもしれないとしみじみ語っていた。つまり、モネで描かれたように、震災の時、被災地にいなかったという部外者的な人物像は多少、一木さんご本人の経験も加味された上での設定だったのではないかと推測できた。

登米で描きたかったこと、なぜ登米からスタートしたのかというと一番は登米に「利他の精神」があったからということだ。人を活かして、人に寄り添うことができるのが登米の魅力であり、その象徴としてサヤカさんを登場させ、サヤカさんの生き方がまさに登米そのものだという。
番組に対するつっこみとして、なんでサヤカさんは山仕事する時もきれいな白い服を着てるんだとか指摘もあったらしい。その衣装にもちゃんと理由があって、山主というものは普通、山の中で働くことはなく、林業はちゃんと武装した専門家に任せているから、きれいな衣装で問題ないらしい。サヤカさんはヒバの木をリスペクトしていて、山の巫女さんみたいな存在だから、神聖なものとして、「白い衣装」を選んだと。なるほどなと思った。こういう細かい設定を聞くととても納得できるし、演出という仕事は本当に細かいところまで目を配っていて、一切手抜きがなくてすごいなと感心した。

「いだてん」等で一緒に仕事をしたクドカンさんとももちろん親交があるらしく、「なんで(何もない)登米なんですか?近隣の町はみんな悔しがってますよ。」というメールが宮藤さんから届いたらしい。クドカンさんは栗原の方なので、登米の隣町出身。栗原も方も登米なんて何もないと感じるほど、ほんとに何も魅力なんてない町だと思っていた。

このメールの話は小ネタ(小ネタでさえレベルが高い…。貴重なお話。)で、本題に戻ると、登米の魅力を具体的に提示して下さった。
まずは森林セラピーとラフターヨガとの出会い。最初は怪しいイメージがあり、疑っていたという。やばかったらすぐに逃げればいいよねみたいな話もしていたらしい。登米に住んでいた自分も知らなかったし、たしかにセラピーとヨガなんて怪しい響きがある。実際に体験したら、ドラマで紹介されたように、大声で笑って山を歩き回るあの行為に最初はやっぱり引いてしまったと。しかしふざけて笑っているわけでなく、森と親しむという導入になるレクチャーであり、そこから林業を知るきっかけになり、衝撃的な出会いになったと語ってくれた。

次に「やまと在宅診療所」という登米の訪問医療の存在。ドラマで医事考証を担当し、リアル菅波先生とも呼ばれる田上医師が作った診療所の存在が大きかったという。田上先生は実際に東京と登米を往復する生活で、それがドラマのテーマにもなっている「循環」を彷彿させ、さらに医師は生死に携わる仕事だから、命の循環にもつながっていると。
そして登米が果たした役割として、震災時自衛隊ボランティア等の支援拠点になっていたことも登米を調べていて初めて知り、南三陸や石巻と隣接していることもあり、沿岸部をつなぐ扇の要とも言える、重要な場所だったことも含めて、ロケ地決定を後押ししたらしい。
最後に、登米の武家文化など唯一無二の個性のある場所で、北上川は物流拠点と言えるし、水の流れも感じられる町だから、登米は何もない町と思われがちだが、とてもキラキラしている町に見えると熱く語ってくれた。

俳優陣に関して、当初たまたま素で金髪の人が多く、 (サヤカ、亮、三生という三人)、金髪が渋滞していてNHKなのにこんなに金髪が多くて大丈夫なのかという話も出たが、髪の色にも人間性が出るからこのままいこうということになったらしい。時間の流れと共に、亮は黒色に、三生は坊主になったし、成長を髪の色で表現していたみたい。そもそも金髪は金髪でも、当初、永瀬廉くんはおしゃれな色の金髪で、気仙沼の漁師の設定だから、気仙沼らしい金髪に若干調整したそうだ。
亮の設定に関しては脚本の安達さんが脚本に「天が二物も三物も与えた神のごとき魔性の少年」と書いていたという。これは私が個人的に思ったことだけれど、震災前までは完璧な非の打ちどころのない神のごとき少年だったけど、やっぱり神ではなく、人間だから弱い一面もあるわけで、二物も三物も与えられた通り、ルックスも性格も抜群に優れていたけど、震災で母を亡くしたことにより、父も暴れ、愛に飢え、震災後は甘いマスクに影も落とすようになり、腹の底では幸せそうな他者を羨み、誰にでもやさしいのはうわべだけで、実は孤独を背負い込んでいるという天に愛を奪われたような不幸な少年像も見えたから、そんな難しい役を演じきったれんれんは本当に役者としてすごいと思う。(一木さんもれんれんと言っていたので真似しました。)
愛に飢えていた頃、苦しくてモネの慈悲にすがろうとした時の亮の表情を思い返すと、あの頃のモネは「正しいけど冷たい」マドンナのようだった。岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」と言ったところだろうか。傷を負った亮は聖母のようなモネに救いを求めていた。モネは正しいから甘えさせてはくれなかったけれど…。

そして最終週の116話の亮と未知のシーンは特に一木さんが力を入れて挑んだ演出らしく、かなり詳しく語ってくれた。二人はずっと未知の方が亮を好きで、つまり未知の片想いみたいなものでこの場面まで、亮はずっと受け身で、だから未知がパンチして、それでおしまいでいいんじゃないか、抱きしめちゃったらキンプリのれんれんになっちゃうよと他のスタッフ等からも言われたけれど、ここは一木さんががんばって、「いや、亮が未知(の思い)を受け止める演出が必要」と考え、未知にパンチされた後、今度は亮がやさしく未知を抱きしめるというあの感動的に結ばれるシーンが生まれたそうだ。つまり未知の一方通行ではなく、未知の思いに応えるため、亮は未知を好きという自己主張の意味でも抱きしめることが重要だと、あのシーンに関しては手の位置や角度まで細かく指示したそうだ。まさに「愛されるよりも愛したい」という場面。この話を聞いて、演出ってすごいと思った。演出家の思い、指示ひとつでドラマの名場面、感動シーンが生まれてしまうんだから、妥協せず、自分の演出を信じて、そのシーンを撮り切ることを積み重ねることが大事なんだなと、演出という仕事が少しだけ分かった気がした。つまり、台本を書く脚本家ももちろん大切だけど、その脚本を読み、どう映像化するかは演出家の腕次第なわけで、私はずっとモネたちの台詞ばかり注目してドラマを見ていたけれど、これからは動きや表情も慎重に見ようと思うようになった。ので、さっそく一木さんが特に熱意を込めて作り上げた116話を見返したら、リアルタイムで見ていた時より、感動してしまった。制作者の意図や思いが分かってしまうと、より感慨深いシーンだなと。モネは熱いシーンも時々あったけど、あれは一木さん方が熱い人たちだから、心と魂のこもった場面が生まれやすかったんだろうなと思った。

そしてこの話の後、最初に書いた通り、一木さんの話がスピードアップし、メモがさらに走り書きになった。
登米町森林組合に度肝を抜かれたという話から始まった講演後半。ほんの2年前までSDGsという言葉をNHKのスタッフでさえも知らず、この森林組合で初めて聞き、「SDGsって何?」と思ったそうだ。たしかにSDGsはこの1年ほどで広く普及した気がするし、私も2年前は知らなかった。それなのにこの田舎の登米ですでにSDGsを考えていた人がいるというから、やっぱりすごい。
林業に関して、物価は上がっているのに、木材に関しては下落する一方で、つまりお金にならない仕事になってしまっているのがもどかしく見えたらしい。本当は木という存在は人のライフラインになっていて、山や森は地球のライフラインでもあるから、林業は重要な産業であるべきだと。人を生かすための林業、山を守るためのラフターヨガを取り上げる必要性を感じたと。
そこで、モネには林業の仕事を与えることにしたらしい。本当はモネの仕事はカフェ(椎の実)の店員でもいいかとも考えたけれど(カフェだと地元のおいしい食材、仙台牛とかも登場させられるし)、最終的に気象予報士になる未来が決まっていたため、林業を通して空を感じてもらうことにしたということだ。
こういう裏話を聞くと、モネファンとしては本当に興奮するし、本当に細かくいろんなことを考えて設定や状況を作り上げているんだなと感動した。

続いて、人を循環させるシステムへの共感と菅波医師の誕生の話。モネと菅波先生は成長途中の人間で、成長を描きたかったと。モネのメンタル(本当の痛み)をえぐることによって、菅波先生が成長する展開にしたということだ。
「あなたの痛みはわかりません。でもわかりたいと思ってます。」という菅波先生はモネに放ったあの名台詞はその象徴だ。
人の痛みを腫れ物のように見て見ぬふりをするのではなく、痛みに踏み込まないのではなく、痛みを分かち合うことの尊さを表現したかったらしい。

そして登米が震災時に果たした献身的役割(利他の精神への共感)として、登米コミュニティFM(はっとFM)を挙げ、はっとFMは震災前からあったFMで震災後、気仙沼でコミュニティFMを立ち上げるため尽力していた話を教えてくれた。FMが登米と気仙沼がつながるきっかけになったようなものだ。

それから実は描ききれなかったシーンとして、登米で震災時、サヤカさんと朝岡さんと中村医師が出会った場面をちゃんと撮りたかったと。コロナ禍で3週分放送が減ってしまい、時間的にも描くことができず、残念で心残りだと言っていたので、この辺はスピンオフに期待したいと思う。

サヤカさんが演じた「能」に関しては、通常、能は男性が演じるものだけど、女性が文化を守っているという「ジェンダー」を伝えたくて、あえてサヤカさんという女性に男性の役割を担わせたらしい。つまりサヤカさんというひとりで生きるたくましい登米の人が登米やジェンダーなど様々な象徴になっていて、改めて存在感が圧倒的だったと言える。
サヤカ役の夏木マリさんは能で必要な横笛の先生から「あなたは絶望的だ」とかさんざん言われていて、夏木さんに対してそんなに言ってしまって先生、大丈夫?と思ったことも話してくれた。夏木さんはだいぶ落ち込んでいたけど、本番では見事に吹いてみせたから、やはりすごいなと思ったと。
登米の奥ゆかしさ、ゆとり、豊かさがモネのテイストであり、サヤカさんのように誰でもいつでも来ていいよと人を守り、人を育む「居場所」が現代人の抱える生きづらさを和らげると考え、モネが大事にしたいことは登米にあった、集まっていたと一木さんは語ってくれた。

「どんな人にも事情があり、本人にしかわからない痛みがある」というテーマに関して、震災時たまたま故郷にいなかったというモネの個人的事情はドラマとして弱いんじゃないかと考える人もいたらしい。モネがトラウマになってしまった出来事は偶然のことで、誰にでも起こり得る小さな出来事だけど、トラウマの強弱(インパクト)ではなく、痛みはその人にしかわからないし、その人が決めることだと寄り添う気持ちを表現したという。
登米で出会ったサヤカさんや菅波先生は人と向き合うことに真剣で慎重でやさしい人たちであり、登米には百年先を見る目があり、森や川の圧倒的存在感もあり、痛みを抱えるモネが癒される場所にふさわしいと。

この話を受けて、BUMPの藤くん大好きな私にとって、この上なく耳よりな情報を教えてもらった。一木さんは藤くんに主題歌をお願いする時、登米のキラキラした田んぼの写真を藤原さんに見せたので、《昨夜の雨の事なんか 覚えていないようなお日様を 昨夜出来た水たまりが 映して キラキラ キラキラ 息をしている》という歌詞の「キラキラ」という部分は登米のことを想像して書いてくれたと勝手に推測していますみたいなことを話してくれた。

一木さんって本当にすごい。日本屈指の演出家だから驚く必要はないんだろうけど、クドカンと普通にメールしてるし、キンプリのれんれんとか言うし、そして藤くんがインタビューで話していた通り、熱烈オファーをしてくれたし、なんか憧れの人たちと普通に関わり合っている立場の一木さんはやっぱりすごい人なんだと様々な話を聞いているうちに実感した。さっき見返した116話では最後に「なないろ」が流れ、最後の最後の名前が一木さんだったので、実は誰より偉い人なんじゃないかと今さら気付き、震えた。そんなすごい人の話を直に聞けて本当に幸せだったと。

「おかえりモネ」において当事者以外が考えねばならないことをサヤカさん、朝岡さん、菅波先生、中村先生に託したという。
「正しいけど冷たい」=「冷たいけど正しい」は外の人だからこそ言える言葉で、モネは気仙沼にたまたまいなかっただけで部外者になってしまった。しかし、登米で悲しみを乗り越え、東京で成長し、最後に自ら意図的に部外者になって気仙沼に戻ったという、弱い「部外者」になってしまうのではなく、「部外者」という立場を選んででもしぶとく関わろうとする強さ、痛みを抱えた人の側に寄り添おうとするたくましさみたいなものをこの作品を通して、伝えたかったらしい。

ここまで一木さんの講演、第一部の話を書き留めたメモを見ながら振り返ってみた。続いて少し休憩を挟んで、第二部、一木さん以外の方々も交えたパネルディスカッションで気になった部分をレポートしていきたい。(パネリストとして、一木さんの他にやまとの田上佑輔先生、森林組合の竹中雅治さん、長沼ふるさと物産の佐藤純さんが登壇。司会進行ははっとFMの佐藤万里子さん、市役所の小野寺崇さんも登壇し、一木さんを中心に虹の弧を描くようなキラキラしたトークが繰り広げらるた。)

まずはリアル菅波先生の田上医師が登場し、ドラマで菅波先生が登場した意義として、患者の人生(生と死)に寄り添い、患者の人格を見る先生という、人とのつながり、循環を表現したかったということだ。患者に寄り添うことで、菅波先生は成長するという展開で、実際に菅波先生や中村先生の部分の脚本を田上医師に読んでもらい、考証してもらったという。登米には田上医師が作ったドクターズカフェという気軽に健康相談もできるカフェがあり、それをドラマ内に反映させたらしい。つまり本当に菅波先生のモデルは100%田上医師であり、もしも登米に田上先生がいなければ、「おかえりモネ」というドラマはそもそも生まれなかったかもしれないと私は思った。田上先生に感謝するしかない。

そしてモネで林業考証を担当した竹中さんはリアル・サヤカさんと言ったところだろうか。森林組合の方ではあるけれど、「くまさん」のように実際に山に入って最前線で木を伐採しているわけではなく、山主・サヤカさんのようにほとんど実際に山の中で活動することはないらしい。だから自分が林業考証を担当していいのか考えてしまったりもしたらしい。しかしサヤカさんという登場人物と立場が近い分、ドラマとしては逆にリアリティがあり、竹中さんが林業考証に携わって下さったからこそ、山の中以外での木の仕事が分かったというか、リアルな森林組合が垣間見えた気がして、竹中さんで本当に良かったと思った。ちなみにラフターヨガをされている方でもあるけれど、ぱっと見、元気というよりは、温厚で穏やかそうで、それこそ登米の木みたいな方だという印象を持った。近くにいれば安心できて、セラピー効果のある方だと思った。
竹中さんの目指す百年の森づくりがドラマのモチーフとなり、関係ないものもつながっている、森と海はつながっている、山の恵みが海の恵みというテーマに結び付いたらしい。組手什は登米では震災時からのアイテムで、モネが気仙沼で盆棚を作るのに使用したり、本棚にもなるし、万能な木材であり、木材資源の活用法を伝えるのには格好のアイテムだった。
ラフターヨガというエンターテインメントを使って森を教えたかった、導入部分として、森林セラピーを用い、森と触れ合っているうちに、モネは急な空模様の変化で山の怖さも体験することになった。つまり「おかえりモネ」は最終的に、林業の教科書と言える作品に仕上がったということだ。

森林セラピー、ラフターヨガが人の心をほぐすものだとすれば、それは医療にもつながるから、セラピーを森林内で終わらせるのではなく、登米の医療につなげて、森林と医療を関連付けるのもありで、さらなる登米の革新的な医療発展も目指したいというようなことを田上先生は言っていた。登米で医療革命が起きるかもしれない。田上先生と竹中さんがいれば、それは本当に実現すると思うし、登米はNHK一木さんの熱意、パワーを存分に充電させてもらったから、人と場所の循環の大切さを伝え続け、進歩発展させることが登米に住む人たちの使命だろうと思った。

登米は懐の深い奥ゆかしい町と一木さんは何度も褒めてくれた。実は米山の田んぼ道もモネに歩かせようとしたけれど、長すぎて断念したと教えてくれて、米山に住む者として、米山を検討してくれただけでもありがたく感じた。モネが歩いたかもしれない道を普段、歩いていると思うと、純粋にうれしくなった。地元が特別で大切な場所に変わった。

現代はすべてを否定するようなSNSが普及していたり、なんとなく尊重し合えない世の中になっており、生きづらく、生きづまりを感じることが増えているが、人が人を大切にできる本当の豊かさ、人に寄り添う心の余裕を登米という地では見せることができると考えてくれたらしい。
世阿弥は能を「人の命を寿ぐためにやっている」とつまり「芸能は人の役に立つ」と考えたという。寿ぐ(ことほぐ)とはつまり簡単に言えば祝うという言葉に近いだろうか。まさにサヤカさんの生き様そのものだ。人の命を寿ぎ、人の役に立つことを率先して登米の地で実行し続けていた。財産がなくなるような複合施設を作ってしまったり、山や木を必死に守り、自分はひとりきりで寂しさにも負けず、たくましく慎ましく生きているという…。私は全然真似できそうにない生き方だけど、サヤカさんには憧れる。モネも言ったように、サヤカさんのようになりたい。

冬至間近で日が短いこの時期に、一木さんという太陽よりも太陽らしい輝きと眩しさを放つ、熱意と信念とそれからこのドラマがきっと多くの人たちの役に立つと信じて、登米の人や町のことも信じてくれて、伝えたい思い、描きたい情景を登米を信頼して託してくれた一木さんの情熱を受け取った私は新たな創作活動に向けて、パワー、エネルギーをもらった気がした。
一シーン、一シーン、綿密に計算されて丁寧に作り上げられていることを知れたし、たゆまぬ努力が分かった。とても濃い内容の充実した話を聞けて、幸せだった。
藤くんが「なないろ」で歌った「キラキラ」は、一木さんの人柄、思い、そのものも含まれるかもしれないと気付いた。
登米は一木さんに見初められた場所なのだから、登米という土地に誇りと自信を持って、この場所で生きていけたらと思った。

一木さんはモネロケ以前は新潟のコシヒカリが一番おいしいと思っていたけれど、登米のお米が一番おいしいと思うようになったとも言ってくれて、うれしかった。

そして私は今回の体験を「モネ学」と名付けることにした。「おかえりモネ」とは学べるドラマだった。生涯総合学習できる作品だと気付いた。震災学、心理学、気象学、教育学、歴史学、自然科学、医学、音楽など…。
私はモネが始まった当初、「モネ活」を始め、「モネセラピー、モネ療法」を覚え、シンポジウムに参加したら、最終的に「モネ学」に辿り着いた。登米で定期的に「モネ学」を開講し、総合循環学のような学びを提供したらどうだろうか。
私はまた一木ゼミに参加したい。生涯、モネ学を勉強し続けたい。
「おかえりモネとは何だったのか」とモネファンはずっと考え続けているからこそ、登米はモネ学を発信し続ければいいかもしれない。そんなことを考えたシンポジウムの日はちょうど12月の満月(コールドムーン)の日で、まんまるの月が風車の側から顔を覗かせた。終演後も魔法みたいな夜だった。

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幸運なことに一木さんにモネの感想文等を手渡しする機会もあり、そのことで頭がいっぱいで、会場内の撮影にあまり集中できなかったことは少し残念。もう少しちゃんと撮りたかったかな…。今回は人とのつながりの大切さを実感できた。ひとりじゃできないこともたくさんあるし、夢を叶えてくれてありがとうございますと関わってくれた方々に感謝したい。
シンポジウムのラストもスタート同様、「なないろ」が流れて、ライブ終演後という感じだったので、「なないろ」にも助けられて、勢いで一木さんと話せたようなものだから、「なないろ」という曲を作ってくれた藤くんにもありがとうと伝えたい。ほんとに、すごい曲。この半年間、ずっとこの曲に背中を押してもらった気がする。「なないろ」のことを語り出すとまた長くなるので、1万字こえてしまったし、そろそろやめるけど、CDフラゲした21日、長沼に虹が架かった。モネ放送初日といい、そして今日といい、ほんとに「おかえりモネ」は空に祝福されていて、神がかっている。

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「山の神さま、いや海の神さまでも、空の神さまでもいい。どうか、行き詰まって、息づまって、生きづまっている人すべてのたちに、良い未来を…」

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