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博士課程の入学をお祝いして頂きました/大学教員になりたいか?

佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)と、週4勤務の正社員(メーカー系の経理職)を兼ねています。

博士課程への進学をお祝いしていただきました。

神戸で三国志のイベント(有料)で講演をしてきたときの一幕。
参加者は、三国志を好きな人たち。三国志ファンの聖地となりつつある、ちゃんごくしというお店。修士課程の研究の一部を話してきました。

ケーキはサプライズでした。
自分のなかで、お祝いされるのって、なんか変な感覚があるな、と思っていたんですが、2日ほど経過して言語化できました。

本来(?)大学院の進学は、お祝いされる筋合いのものじゃない。
親から見れば「教育」であり、学生から見れば「自己投資」でしょう。人材としての価値を上げるために、自分のためにすることであって、だから自分で授業料を支払うんですね。

なんで大学院への進学を祝ってもらえるのか?
これはどういうことなのか?って考えました。
ぼくができること(提供できる価値)とは、大学院で学んだこと(三国志の調べ物をするための情報・方法・スキル)などを、イベントや同人誌・動画などで発信していくことが、お祝いの恩返しになるのではないか。

かってな認識・使命感というか、自分の位置づけでしょうか。
三国志が好きなひと、三国志に詳しいひとはたくさんいますけど、三国志を研究しようというのは、常識的に考えてアタマがおかしい。成果についても人生の処し方においても、成算がなさすぎる。
ぼくは、ほかの三国志ファンの皆さんの代わりに?期待を背負って?大学院に通って、修士号を取るのみならず、博士課程に行くのではないか。

ただし、だれかに頼まれたわけではなく、
だれかに恩を着せるつもりもなく、
だれかの期待があるとしても、重荷とも思ってないです。

学んだ結果のシェア。
あえてお祝いをして頂ける理由を探すならば、これぐらいしかないのかな、それも頑張れたらいいな、と捻り出した感じです。

「いまからワタクシは皆さんの代わりに、修羅の道に行ってくるので、応援をお願いします!」というつもりは毛頭なくて、
ぼくは自分の判断で、かってに虎穴に入ってくるんですけど、虎児を得たならば、その成果をシェアしますので、気が向いたら受け取ってください、という感じ。

シェアの仕方は、インターネットでの発信とか、本を書いて売るとか、動画を作る、もしくは動画に出演するとか、今回のようにイベントでしゃべるとか、市民講座でしゃべるとか、、(いまは生徒を募集していませんけど)家庭教師のようなかたちで三国志について調べ物をするノウハウ・スキルをお伝えするとか、、なのかなと。

しゃべるか、文章に書くか、
オンラインかオフラインか、
1対1、1対少数、1対多数か、
有料か無料か、価格設定はいくらか、
などは、三国志への興味の深さや方向性、相手と自分の状況、双方が受け取るメリットのバランスと納得感、その形態を成り立たせるためにかかるお金などを加味して、個別に決めればいいと思います。

上記のちゃんごくしでの少人数イベントは、三国志まみれの店内と、三国志にちなんだお茶菓子がメインで(ぼくの講演と合わせてメインが2つあるイベント)、三国志ファンの方々からお金と時間、ご足労をいただいて、成り立っているわけなので(半年か1年に1回で、今回が4回目)、この記事に書いたことがすべて架空の妄想ではないとは思います。ちゃんごくしの店内で、ぼくの書いた本も販売していただきました。
お店と参加者の皆さまに感謝です。

博士課程に進むと、「教授を目指すんですか」と言われますけど、ぼくは大学教員を目指しているわけじゃありません。
それは、期待値(就職できる可能性)が低いから、あらかじめ自己否認・却下しているのではありません。

大学教員になりたいとは思っていない

世間知らずなことを言いますけど、ぼくは、

大学院(博士課程)で学ぶことは、大学で教員の仕事を得るための準備である、という1つのアウトプットの方向・方法しか想定しないというのは、窮屈だと思っています。
就職準備のために大学院に進むならば、進学をお祝いしていただく筋合いがないだろう、という気はするんです。※お祝いした人に、そこまでぼくを拘束する意思はなかったと思いますが。

現時点では「三国志を研究したい」とは思っていますが、「大学教員になりたい」とは思っていません。大学院で学ぶことは、ぼくにとって大学教員になる準備ではありません。
※今後、「職業としての大学教員」について知識が増え、考え方が変わるかも知れませんが、少なくとも現段階では視野の外です。

ぼくの場合は(たまたま)三国志が題材でしたが、社会との接点という意味では題材が三国志である必要もなくて、自分で興味を持ったことについて調べ物をしたり、考え事をしたりすることは楽しいですよ!!
と世間の人たちに示したいだけかも知れません。
それがすべてかも知れません。

三国志が好きな人に示した方が具体的に伝わりやすいので、「三国志を捨てた、学び全体の抽象的な伝道師」を目指すのも違うと思いますが。

三国志を通じて学びの面白さを伝えたい。
それを実現する手段として大学教員が最適なのか、よく分かりません。
いやいや、いま大学教員(教授)から勉強を教わっているじゃないか、と言われたら反論できないんですけど、
それならば、世間一般の三国志好き(中高生、大人)が、三国志をもっとよく調べたり考えたりすることに繋がらない。大学の学部で文学部を選ぶことは有利ではないし、文系の大学院に進むことで「捨てなければならないもの」が多すぎます。もっと広く浅く、という思いがあります。

大学教員になることが、世間に対するメッセージ発信の妨げになるとは思いませんが、唯一の手段であるとも思いません。

「ラーメンを食べるのが好き。調理師学校に行った。だからラーメン屋になるしか人生の道がない。ラーメン屋は経営が難しく、労働環境がよいとは限らない。しかしラーメン屋でがんばるしかないんだ!」
……みたいな、単線のキャリアで自分を追い詰める必要はないのと似ているのではないでしょうか。好きなことから、もっとも著名な(想起しやすい)職業を1つだけ導き出し、どんなに成功確率が低くてもそこに挑戦し続けることが、誰にとっても正しいとまでは思いません。
大学教員を定年前に辞める学者もいますしね。※「大学教員になってから言え」というお叱りを受けるかも知れませんが。

「お祝いされる博士課程の進学」はなかなかないことだと思うので、記事にしてみました。勉強がんばります。

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