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アラサー以上が勉強するとき気をつけるべきたった1つのこと

佐藤ひろおです。会社を休んで早稲田の大学院生をしています。
三国志の研究を学んでいます。

頭がよくなりたい、学問がうまくなりたい、もっともっと、と念じながら日々を過ごしているわけですが、思うことがあります。アラサー以上が勉強するときに、気をつけるべきことは1つだなと。それは、「いかに頭を空っぽにするかで、成果が決まる」です。

経験的にも、読みかじった脳科学?などにおいても、ひとの頭のスペック、機能における成長は、二十歳で終わっています。
よく「学歴社会」「学歴フィルター」が政治的に正しくないとして攻撃されますが、それでも学歴が一定の信憑性をもって人物評価の尺度とされているのは、「どこの大学の学部に入学したか」が、頭脳のスペックを的確に反映するからではないか。
ぎゃくに、21歳や22歳における学習は基本スペックに影響を与えないので、「東京大学中退」が、挫折であるにも拘わらず、ブランドになったり尊敬を集めたりします。大学での学びは何なのか?という疑問を残しつつも、社会一般はなんとなく気づいているんですよね。

二十歳を大きく超えてくると(アラサー、アラフォーになると)、かえって諦めがつくというものです。なぜなら、もはや頭脳の基本スペックを、現有のものから大きく向上させられない。「上位機種に載せ替える」ことができないんですね。ですから、頭の悪さを憂う必要がありません。
これって、絶望でもあり(もう這い上がるのはムリだ)、希望でもある(もう悩まなくても良いのだ)

大人の場合、脳みそは現有機をだましだまし使うしかないならば、差が付くのは、使い方のみです。
中学生や高校生ならば、酷使することで基本スペックを拡張することができた。しかし、アラサー以上が中高生のように脳みそを酷使しても、摩耗して壊れることはないにせよ、成果に繋がりません。

どのように使えば、成果を最大化できるのか。
答えは、きわめて単純。
やることをなるべく減らして、処理能力を集中投下するだけ。
ひらたく言えば、「頭を空っぽ」にしたら優勝です。

処理能力が100のひとが10%を振り向けるより、処理能力が50のひとが30%振り向けたほうが、割ける能力は大きい(10<15)。
処理能力50のひとが、処理能力が100になりたいなと思っても、もう最大値の上昇は望めないのだから、いかに効率よく差し向けるか。差を生み出すのは、一点に尽きる。
どのように逆立ちしたって、もはや、振り向ける比率でしかアウトプットは決まらないのだから、いっそ、清々しいです。

いかにして、「頭が空っぽ」を作り出すか。
答えは、やることを減らす。
仕事を減らす(しぼる)のは容易ではないが(それが大人というものだ)、みるみる仕事を減らせずとも、つねに脳みそのリソースを食いつぶす、「心配ごと」を減らすことも有効。心配事によって、30%をつねに占拠されていたら、出せる成果も出せません。
よく、「お金の心配があると、パフォーマンスも幸福度も落ちる」といいますけど、そうなのでしょう。頭脳の上限が動かせないにも拘わらず、なけなしの処理能力を固定費的に捧げるというのは、愚策に違いない。

ぼくは現在、修士課程1年生の後期が、全15週(15回の授業)のうち、7週(7回)が終わりました。あと1週間で、折り返し。
散発的にやってくる授業出席のスケジュール。ぱらぱらと指名される予習たち。「授業をさばく」ことは、時間的拘束のみならず、注意力を奪います。心配ではないものの「気に掛かる」存在です。正直いって、研究にとってマイナスの材料です。早く終わってほしい。「授業に気を取られて研究が滞るのは、キミの頭が悪いからだよ」と言われるのかも知れませんが、しょうがないんです。上限値は一定なので。比率ドロボウの話をしています。

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