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『レディ・バード』(2017年) 映画評~愛とは何かをめぐる物語


<あらすじ>
2002年、カリフォルニア州サクラメント。閉塞感溢れる片田舎のカトリック系高校から、大都会ニューヨークへの大学進学を夢見るクリスティン(自称“レディ・バード”)。高校生活最後の1年、友達や彼氏や家族について、そして自分の将来について、悩める17歳の少女の揺れ動く心情を瑞々しくユーモアたっぷりに描いた超話題作!


 

【レディ・バードという名前=凡庸さからの逃避】

『レディ・バード』は愛とは何かを巡る物語だ。

主人公のクリスティンはサクラメントというカルフォルニア州の地方都市に住む高校生で大学受験の真っ只中。だが東海岸のハーバードやイェールなど「アイビーリーグ」と呼ばれるエリート私大は夢のまた夢。母のマリオンは「家は貧乏だから」の一点張りで州内の公立大学に入れという。とはいえUCバークレーやUCLAなどの名門校に入れる学力もない。クリスティンは車中で母と口論になり、車から飛び降りてしまう。

 自分は特別だと信じたい、しかし彼女は同時に自分の凡庸さを誰よりも理解している。進路相談で「イェールとか東海岸のリベラル・アーツ・カレッジにも興味はあって...ま、ムリだとは思うんですけど(笑)」と謙遜するも、担当教員から「そりゃそうよ、この学力じゃ絶対ムリ」と一笑に伏され、彼女は思わずムッとする。

演劇部の芝居でも本来なら不合格のところを、自分の役が追加されたことにもガッカリする。そして特別なものにしたいと思っていた初体験も、ひどく平凡な地方の高校生達の日常に成り下がってしまう。

彼女が自らをレディバード(てんとう虫)と名乗るのは凡庸さからの逃避でもあり、それはクリスティンという母から与えられた名前が気に食わないからでもある。

 母マリオンはクリスティンを徹底的に現実に引き戻す存在だ。
「ここではないどこか」を見つめてうわの空になる彼女に、マリオンは現実を見ろという。自分の身の回りを見て、現在地を知り、身の程をわきまえろと口を酸っぱくして言うのだ。演劇のオーディションでクリスティンは「Everybody says don`t」(みんな私に「ダメ」と言う)
という曲を歌う。

私のこのイライラも、この気持ちも誰も分かってくれないという怒りだが、実際に彼女のことを理解してくれる人はほとんどいない。なぜなら彼女には周りが全く見えていないからだ。


【利己的なクリスティンと利他的な母】

 彼女は自分が悲劇のヒロインかのように振る舞うが、周りの人の不幸が全く見えていない。自分の父が会社をリストラされ、その前から鬱病に苦しんでいたことを知らなかった。演劇部の顧問リバイアッチ神父も過去のトラウマが蘇り、学校に行けなくなってしまう。

親友のジュリーは両親が離婚していて、母には新しい彼氏がいる。最初の恋人のダニーは実はゲイだったのだが、一家全員が敬虔なクリスチャンなのでそれを告白出来ずに苦しんでいる。そして処女を捧げたティモシーの父も末期がんにおかされている。彼女の周りの人々はみな複雑な事情を抱えているのだが、自分のことしか頭にないクリスティンはその多くに気がついていない。テレビが伝える9.11もイラク戦争もひとごとだ。

 彼女にとって大切なのは自分だけ。カイルに近づくために、ジュリーから金持ちで美人だが空っぽな同級生ジェナに友達を乗り換えるクリスティン。そんなクリスティンをジュリーはこう糾弾する。

You can`t do anything unless you’re the center of the attention ,can you?
自分が常に注目の的じゃないと、何にもできないんでしょ?

 痛い所を突かれたクリスティンは「お前の母ちゃん豊胸」と支離滅裂な返しで精一杯だ。この場面に限らずクリスティンは論破されると、すぐに話題を変える。そうやって現実を見ようとしない。

 対して母のマリオンは、失業中の父に代わって病院での夜勤を週に何度もこなしている。患者と街で会うと、その家族のことを気にかける。看護師なのにリバイアッチ神父にカウンセラーのように寄り添い、彼の話を聞いてあげるのだ。家に帰っても家族の朝ごはんを作り、夜遅くまでクリスティンのドレスを裁縫してあげる。

息子のミゲルは養子で、バークレーを卒業したのに就職できていない。しかしその彼女で家を勘当されたシェリーの世話までしてあげている。

 マリオンはいつも他者に献身的なのに対して、利己的なクリスティンはその事にも気がついていないことが多い。
だがこの映画でクリスティンは2度だけ、他者に対する優しさを見せる。

【愛と許しのキリスト教】

最初はダニーを許す場面だ。前述したようにカトリックの高校で、しかも両親も祖母も敬虔なクリスチャンのダニーは自分がゲイだということを誰にも打ち明けられない。泣き腫らすダニーをクリスティンはそっと抱き締めて彼の裏切りを許した。

 そして2回目はプロムパーティー。クリスティンは自宅で落ち込むジュリーの手を取り、一緒にダンスを踊ってあげる。パーティの後に橋を見ながら2人が会話する場面で、クリスティンが「セックスって思ったほどじゃなかった、オナニーの方が気持ちよかった」とつぶやく。
ジュリーは男子の誰からもパーティーに誘われずに落ち込んでいた。クリスティンはジュリーの自尊心を傷つけないように、ただ彼女の側にいてあげる。この場面は何回観ても涙をこぼさずにはいられない。

 元は母に無理やり転校させられたこともあり、クリスティンは全くキリスト教を信じていない。礼拝もテキトーにやるし、礼拝に使うウエハースをボリボリ食ったり。実際、劇中ではカトリックの教えは必ずしも肯定的には描かれない。どころかゲイのダニーを苦しませたり、妊娠中絶を禁止したりと時代錯誤で抑圧的なものに見えることも多い。

しかしキリスト教の根幹にある「愛すること」「許すこと」の大切さだけはクリスティンも信じているように見えるのだ。それは彼女の悪戯をシスターサラが笑って許し、彼女に愛とは何かを説く場面にも象徴されている。(詳しくは後述)


【愛(LOVE)≠好き(LIKE)】

ここで映画全体のテーマである「愛」について考える。劇中で愛について言及する場面が2つある。1つはクリスティンとマリオンがプロムに着るドレスを選んでいるシーンだ。マリオンは相変わらず「太っている」とか「服がピンク過ぎる」とクリスティンを頭ごなしに否定する。クリスティンは思わずこんな吐露をする。

クリスティン: I just wish that you liked me.
私はただママに好かれたいだけなのに。
マリオン: Ofcourse I love you.
愛してるに決まってるじゃないの。
クリスティン:Do you like me?
そうじゃなくて「好き」なの?
マリオン:I want you to be the very best version of yourself.
あなたには常に最高の自分でいて欲しいの
クリスティン:What if this is the best version.
もしこれがその最高の状態だとしたら?

 この場面で面白いのはlove(愛)とlike(好き)の違いだ。マリオンは娘のとうとう「好き」だとは言えない。この親子は間違いなくお互いを愛しているが、故に相手の直して欲しいところが気になってしまう。「なぜもっとちゃんとしてくれないの」「なぜもっと褒めてくれないの」と。

 ラブコメでよく描かれるのは I like you とは言えても I love you とは言えないジレンマだが、それはあくまでも恋愛が他人と他人を結ぶ関係性だから。家族や親子はその逆なのだ。「愛」が先にあるからこそ「好き」が簡単ではない。

【愛(LOVE)=労わり(ATTENTION)】

 愛についての言及のもう1つは、前述したクリスティンのエッセイを読んだシスターサラがその感想を話す場面。クリスティンは地元サクラメントの愚痴を書いたが、シスターサラは「あなたはサクラメントの街をとても愛しているのね」と笑う。

シスターサラ:You write about Sacramento so affectionately and such care.
あなたのエッセーは街に愛情を持って細かく観察しているわ
クリスティン:I was just describing it.
ただの説明です
シスターサラ: It comes across as love.
それは愛から来るものよ
クリスティン:Sure, I guess I pay attention.
まぁ...注意を払ってるから
シスターサラ:Don’t you think maybe they are the same thing? Love and Attention.
同じことだと思わない? “愛情”と“注意を払う”は

 ここでこの物語におけるサクラメントの街は、母マリオンを象徴していることが分かる。田舎でダサくて何にもなくて大嫌いなサクラメントの街。大嫌いだけど、でもクリスティンはこの街を愛している。マリオンが常に他者を気にかけていたわるように、クリスティンも無意識のうちに街を誰よりも深く見つめていた。

 映画のラストで、クリスティンはサクラメントを離れて大都会ニューヨークで自立する。酔っ払った彼女はバーで男を逆ナンした時に、初めて自らをレディバードではなくクリスティンと名乗る。翌朝、彼女は吸い寄せられるように教会に入り賛美歌を聴く。何かに導かれて彼女は母に留守電を残す。

 サクラメントを出る前、街を1人でドライブしたときに初めて地元の美しさを知ったと言うクリスティン。親元を離れる事になって初めて彼女は気づいたのだ。母の愛の深さを、そして自分の母に対する愛を。サクラメントの美しい夕焼けの風景を脳裏に浮かべて、クリスティンは電話を切る。きっともう彼女は大丈夫だろう。愛とは何かをほんの少しだけ知ることが出来たのだから。




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